当時公卿と呼ばれる三位以上の上級貴族は、制度上は「貴」と位置づけられた。これに対し、四位五位の位階ランクは「通貴」に位置し、広くは正規の貴族に準ずる立場だった。式部にいたる歴代は中級貴族といえるが、彼女の曽祖父の兼輔だけは公卿だった。『兼輔集』などの作品でもわかるように、歌才も豊かだった。ちなみに『源氏物語』にも、この兼輔の歌が随所に引用されており、彼女が祖父に寄せた想いを知ることができそうだ。
兼輔は「みかの原 わきて流るる 泉川 いつみきとてか 恋しかるらん」との『百人一首』(27番)の作者としても知られており、三十六歌仙の一人だった。兼輔には「人の親の 心は闇に あらねども 子を思ふ道に まどひぬるかな」の『後撰集』所載の親心を詠じた歌もよく知られる。この歌は醍醐天皇の更衣となった娘の身を案じたものとされる。
『源氏物語』の舞台は諸種の議論はあるものの、時代的には醍醐朝の頃とされる。その冒頭部分には桐壺更衣が登場するが、あるいはこの兼輔の更衣となった娘が記憶にあったかもしれない。兼輔は賀茂川堤に邸宅があったことで堤中納言と呼ばれた。その妻は歌人として、これまた知られる藤原定方の娘だった。式部にとっては曽祖父ながらその歌才は、兼輔以来のものだった。
父系血筋の躓き
式部への影響力といえば、父為時の兄為頼の影響もあった。血筋的には伯父にあたる。為頼は勅撰集に十一首を載せ、自身の歌集に『為頼集』もある。曽祖父兼輔が歌人サロンで活躍したとすれば、為頼は受領ポストに就きながら、花山天皇の時代に頭目をあらわした。花山天皇に娘を入内させた藤原頼忠(父実頼)家の歌会サロンにも出席するなど、花山系の人脈に繋がりを有した。ただし、同天皇の在位は「寛和の変」により二年と短命だった。