天龍源一郎(てんりゅう・げんいちろう)/1950年、福井県生まれ(撮影/写真部・掛祥葉子)
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「環軸椎亜脱臼(かんじくつい・あだっきゅう)に伴う脊髄症・脊柱管狭窄症」と「敗血症性ショック」で長らく入院生活を続けていた天龍源一郎さん。今回は自宅療養中のところ、これまでに出会った印象的な女性たちについて語ってもらいました。

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 俺のお袋は18か19歳で嶋田家へ嫁に来たんだけど、もとは大きな農家の長女で、いいところのお嬢さんだった。嫁いできてからは畑仕事に一生懸命だった。うちの親父は専売公社で葉タバコの栽培の指導をしていて、福井県内だけでなく、石川県まで出向いて仕事をしていたんで、お袋は大切な労働力だったんだよ。

 ちなみに、馳浩の実家も葉タバコ農家でうちの親父も指導に行っていたんだ。お袋は親父とそりゃまぁ壮絶なケンカをしていたね。お袋も長女で気が強いから言いたいことを言うし、親父は力任せに投げ飛ばしたり、ちゃぶ台をひっくり返したりして、お袋が耐えかねて裸足で外に逃げていくと、俺もよく一緒に探しに行ったもんだ。

 夜空の星を見ながら「俺は絶対この家の子どもじゃない。こんな気性が荒い親から俺が生まれる訳がない」と思っていた。とにかく激しいケンカが絶えなかった二人だが、俺の後に二人の子どもが出来ているのは不思議だね(笑)。まあ、二人とも若かったってことだ。

お袋はよく働く人

 お袋はよく働く人で、家の田畑の仕事はもちろん、俺が相撲に入ってからは町工場で働いてずいぶん稼いでいたようだ。福井は織物が盛んで、その工場も景気がよかったのかな。

「あんちゃん(俺のこと)の手が離れて自立できたし、妹と弟が大学に行くまでのお金が稼げてよかった」と言われたことがあるんだけど、親父の稼ぎはどこに行ったんだろう? その辺の真相はよく分からないけど、とにかくよく働いていた。

 その一方で、料理はまずかった(笑)。味噌汁なんてお湯が沸いたら味噌を入れておしまい。俺も相撲に行って料理を覚えたから「お袋、味噌汁はちゃんとダシをとって、こうやって作るんだ」って教えても「そうかい」なんて言って、ちっともうまくならない。

 実家から離れてみて「これじゃあ、親父も怒るなぁ」って同情したもんだ。カレーだって、俺はちゃんと肉が入っていたもんだと思い込んでいたけど、60歳過ぎてからその話を妹としたら「なに言ってるのよ! ちくわしか入ってなかったわよ!」だって(笑)。

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お袋は子どもたちには優しかった