一条天皇に代わって即位した三条天皇の中宮も、道長の娘・姸子(けんし)だったが、三条天皇は道長を敵視したびたび対立した。そこで道長は、三条天皇の病につけこんで退位を迫り、孫の後一条天皇を即位させて摂政に就任。皇太子には敦良親王が立てられ、道長は天皇と皇太子の外祖父となった。
1018(寛仁2)年には、三女・威子(いし)が後一条天皇の中宮に、次女・姸子が皇太后となり、太皇太后となっていた彰子とあわせて、未曽有の一家三后を実現。道長の栄華は頂点に達した。道長が有名な「望月の歌」を詠んだのはこの時である。
性格的にはどうだったのか。摂関家の栄華を描いた『大鏡(おおかがみ)』にこんな逸話がある。雨が降る不気味な夜、清涼殿にいた花山天皇が肝試しを提案した。道隆・道兼・道長の兄弟が、それぞれ決められた場所へ向かったが、兄たちが恐れて引き返したのに対し、道長だけが最も遠い大極殿にたどりつき、柱の一部を切り取り証拠として持ち帰ったという。道長の剛毅な性格がうかがえる。
一方で道長は、高い教養と公事作法を身につけた一流の政治家でもあった。祖父・師輔(もろすけ)や源高明の儀式書から学び、2000余巻の漢籍を収集していた。道長が執り行う公事は、内容も時間も正確そのものであったという。つまり道長は、単なる権勢欲の権化ではなく、為政者としての責任感も備えていたのである。
文化面でも、大きな足跡を残している。仏教を信仰し、1007(寛弘4)年、自筆の経文を吉野の金峯山(きんぷせん/奈良県)に埋納した。出家後は荘厳な法成寺を造営したほか、盛んに法会を主催した。一連の宗教政策は、のちの院政期の仏教興隆の先がけになったといわれる。紫式部ら一流の文人を娘・彰子の女房として仕えさせたことで、『源氏物語』などの傑作が生まれた。平安文学の最盛期を築いたのも道長の功績だと言っていい。
権勢を極めた道長だが、病気には終生悩まされた。持病の腰痛に加え気管支ぜんそくや胃腸病もあった。54歳で出家した時、すでに老僧のようだったという。仏教の信仰も病気平癒のためだったが、最後は悪性の腫れ物に苦しみ61歳で世を去った。
(構成 上原千穂・永井優希/生活・文化編集部)