はたして現実の男性たちは、そのような理想像に比べれば欠陥や問題だらけで完璧とは程遠い存在です。十五や十九の頃に私が想像していたより、何倍もみっともなく、何十倍もカッコ悪く、そして何億倍も魅力的です。全然好きじゃないオトコも、欠陥だけ多くて魅力が見えないオトコもいますが、少なくとも私が好きになるのはそういう人です。タンとかニャンとか言うかもしれないし言わないかもしれないけれど、私の思想や在り方を根本から変えてしまうような存在です。

 それは恋に恋していた時代から、現実の男性と対峙する度に少しずつ変化していったイメージであって、何か一つものの見方を変えたらすべて許せるようになったということでも、理想と違う人と妥協と我慢で付き合ってきた結果でもありません。

 理想を掲げ、もしかしたらこの人は理想に近いかもしれないと思って近づくわけです。それで傷つき、幻滅し、理想との落差にがっかりしながら、そして時に満たされ、時に今まで知らなかったような自分の感情に気づき、時に初めて味わう自分自身のみっともなさに愕然としながら、自分の中の男性像、恋愛像が何度も壊され、その度に作り替えられていったわけです。

 酷いことするなぁと思うような男、なんてくだらないんだと思うような男、怖いと思うような男によって、当初の理想像なんてすぐぶっ飛びますが、その分、今は死んでもいいわと思わせてくれるような男に出会ったから、ただの男嫌いにならずにすんでいます。

 だからテキストの「わ」や「さま」にいちいちイラっとして、実際の人物に出会う前にすっかり気持ちが萎えてしまうというのはわからない感覚ではありません。テキストによるやりとりや関係の作り方が苦手ということは、裏を返せばテキストに対して強いこだわりや理想があるのかな、と想像します。

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こだわりが壊れる瞬間を大切に