「完全な体育会系ではこれからの世代はついてこない」と中村さん。後進育成にも力を入れる(筆者撮影)

「周りもみんな就職して行くなかで焦りも大きかったです。格闘技を頑張りたいという思いはもちろんありましたが、ちゃんと働こうという思いもあり、どちらも中途半端にはしたくなかったんです。そこで嶋本さんに相談したところ、『やりたい方をやりな』と言われました」(中村さん)

 こうして中村さんはラーメンの道で独立することを決意し、07年12月10日に埼玉で「狼煙」をオープンした。うどん店があった場所の居抜きで、内装は手作り。エアコンや券売機もないなかでの開業だった。あったのは前のお店が残したうどんを茹でる釜だけ。どうしても自家製麺をやりたかったので、製麺機に資金のほぼすべてを捧げることにした。

「当時は『六厘舎』や『つけめんTETSU』がブレイクした頃で、埼玉エリアでつけ麺の有名店といえば『頑者』ぐらいでした。その中でつけ麺店として目立つことはできましたが、スープのクオリティが悪く、思い描いていたものと違うものができてしまう毎日でした」(中村さん)

 オープン当初はラーメンブロガーが食べに来てくれたが、レビューがイマイチで「今後に期待」と書かれてしまうことが多く、悔しい日々が続いた。インターネットにもあまり情報がなかったので、とにかく独学で突き進み、ブラッシュアップの日々。ダメだと思うものはすべて修正した。

「毎日作り直して、スープはある程度完成しましたが、今度は麺とトッピングが理想とは程遠いものでした。自分のやりたかったつけ麺のイメージとのギャップの激しさに、自信をへし折られた気分でした。とんでもない世界に自分が入ってしまったんだなという後悔もありました」(中村さん)

「狼煙 ~NOROSHI~」/埼玉県さいたま市北区東大成町1-544/営業時間は公式X(@noroshi1210)にて更新(筆者撮影)

 このままでは店が潰れてしまうと寝る時間も惜しんでつけ麺のブラッシュアップを続けた。夜になり寝ようと思っても、ラーメンのことを考えてしまって眠れない日々が続いた。次第に余裕もなくなっていき、このときの中村さんは毎日ピリピリしていたという。

 悪いことばかりではなかった。立地はお世辞にも良いとは言えなかったが、その分固定費が少ないので、味づくりに集中できることだけが幸いだった。半年ぐらいすると、ラーメン評論家の人たちが食べに来てくれ、なんと雑誌『TOKYO1週間』(10年に休刊)で新人賞を受賞することができた。中村さんのつけ麺が認められる日が来たのである。

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大宮エリアを代表する店に成長