こうなると話がこじれてきます。声を上げるというのは、ルールに対して否を突きつけるということです。その異議申し立てがうまくいき、世の中が変わるかどうかは、結果でしかわかりません。

 異議申し立ては、その意味では賭けです。だからこそ価値があります。事前に「声を上げても歓迎されるような環境をつくってください」というのでは、おかしな話になってしまう。

 いまの空気に水を差したい、でもそれは空気として歓迎されたい、というのでは有意義な異議申し立てになりません。日本の市民運動の弱点はここにあるように思います。

 訂正する力は、そのような「事前承認」は求めません。単に「このルールはおかしいから変えるべきだ、否、じつはもともとこう解釈できるものだったのだ」と行動で示し、そのあとで事後承諾を求める。それが訂正の行為です。だからそれは、ある観点では単なるルール違反です。

 けれどもその違反がすごく大事なのです。違反によって、ルールの弱点や不完全なところが見えてくることがあるからです。

 むろん、ルールに違反するということは「ルール違反だ」と非難されるということです。みんなから賛同されるわけでもないし、問題提起がうまくいかなければ犯罪になることもある。けれども、そのことによってルールが変わるかもしれない。訂正する力は、そういうリスクを取って行うことでもあります。

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「声を上げること」を同調圧力にしない