
ふきもせぬ風に落ちけり蝉のから
この句もなんという透徹な視線だろう。
明治二十四年の作というから、子規が二十四歳の時に詠んだ句だ。帝国大学に通う大学生の若者だ。
蝉というのはこの上なく「時」を感じさせてくれる生き物である。諸説あるが、よく言われるのは「蝉の命は七年七日」。土の中で幼虫として七年過ごした雄は、地上に出てきて力の限り鳴き続けて七日で生を全うする、というわけだ。鳴くのは、伴侶を見つけて子孫を残すためである。鳴かない雌は、七日の間に気に留めた雄と交わり子を成し、そして果てる。
果てて残るは空蝉である。その一生を「儚い」と捉えるか? 無常だと感じるか? もしも子規の句にその答えを求めるならば、そこにあるのは「蝉の意思」ではないだろうか。意思であり、意志であり、遺志である。
ちなみに、小生の趣味の一つは空蝉の収集である。我が雑破な書斎に、数えたことはないが五十体は超えるであろう空蝉があちらこちらに存在している。日頃の夏の散歩の成果であり昆虫好きの果てなのか……なかば自分にあきれながらも、蝉が生まれて生きてこの世に残した使命感を手のひらに感じるのをやめられない。
ふしぎなのだが、子規の句はそんな己さえも包み込み、そして同化する。次第に見えてくるのは、子規ばかりでなく自分の姿でもあった。