秀吉は、出身地の尾張国から、遠江国(静岡県西部)に向かった。遠江は当時、東海地方でもっとも勢力があった戦国大名・今川義元の領地のひとつ。ここで、義元の家臣の松下加兵衛に仕えることに成功する。雑用係からのスタートだったが、加兵衛に能力が認められ、数年後にはお金を扱うことを任されるほどに出世したとされる。
伝説の「中国大返し」はなぜ実現したのか
18歳になり織田信長に仕えた秀吉は、信長の信頼を得て重臣に出世、近江国(滋賀県)の長浜城主となり、1577(天正5)年には中国攻めの司令官に任命された。当時、中国地方を支配していた大名は毛利輝元。輝元は、信長に京を追放された室町幕府15代将軍・足利義昭を保護するなど、信長との対立を深めていた。
秀吉は輝元の拠点・安芸国(広島県西部)の途中にある播磨国(兵庫県南部)の三木城、因幡国(鳥取県東部)の鳥取城を攻略。そして1582(天正10年)年に輝元の家臣、清水宗治が治める備中国(岡山県西部)まで軍を進めて備中高松城を水攻めし、城を孤立させた。
だが、あと少しで備中高松城が落ちるというとき、「本能寺の変」が起きる。重臣・明智光秀が謀反を起こし、京の本能寺に滞在していた信長が自害したのだ。主君の急死という、思わぬ知らせを受けた秀吉は、軍師・黒田官兵衛の助言などもあり、「織田のほかの重臣より早く京に戻って光秀を討てば、織田家の実権を握ることができる」と考えたといわれている。こうして秀吉は有名な「中国大返し」を実行したのだ。
毛利氏と素早く講和を結び、備中高松城を開城させた秀吉は、中国大返しと呼ばれる強行軍で京へ到着、山崎(京都府近郊)で明智光秀を討った(山崎の戦い)。中国大返しは、重い鎧(よろい)をつけた3万(諸説あり)の兵が、梅雨時の悪路約200キロを10日間ほどの短期間で駆け抜けたという。
どのようにしたかは定かではなく、いろいろな説があるが、近年有力なのが、「御座所利用説」だ。御座所は、秀吉が信長を備中高松城へ迎え入れるために、道中にいくつか用意していた中継施設だ。すでに食糧などを完備していたので、時間短縮ができたと考えらえている。