武士なのになぜ公家の最高位「関白」になったのか

 織田家の重臣や信長の息子たち、信長の同盟者(徳川家康ら)を退けた秀吉は、1585(天正13)年、天皇から関白に、翌年には太政大臣に任命され、政権を打ち立てた。武士の最高位といえば「征夷大将軍」のはず。なぜ「関白」だったのか。

 征夷大将軍に任じられた武士の多くが源氏の血筋を引くとされているが、農民出身の秀吉は名門武士の子孫ではなく、もちろん源氏の末裔(まつえい)であるはずがない。そこで秀吉は、関白職をめぐる争いに乗じて、関白職を出す家柄だった近衛家の養子となり、朝廷の最高の位である関白と太政大臣に就くことに成功した。

 朝廷で位を上り詰めた秀吉は、全国の諸大名に個人的な戦いを禁止する(惣無事令)。この命令や要求に従わなかった大名に、秀吉は軍を送り攻略した。九州、関東や東北を平定した秀吉は、1590(天正18)年、ついに天下統一を達成、天下人となった。

(構成/生活・文化編集部)