その後、白峰氏は根拠となる史料を追加して、主張を補強している。(慶長五年九月十七日)吉川広家自筆書状案(『大日本古文書 吉川家文書之二』九一三号)には「(東軍が西軍を)即時に乗り崩され、悉く討ち果たされ候」「内府様(家康)直に山中へは押し寄せられ合戦に及ばれ、即時に討ち果たされ候」とあり、このことから、やはり開戦直後に東軍の勝利が決まったと説く。「山中」とは、従来戦場と考えられていた平坦な「関ヶ原」の西に位置する山地である。白峰氏は「山中エリアに布陣していた石田方の主力諸将は、一方的に家康方の軍勢に攻め込まれて『即時』に敗北したのが事実であった。従来の通説では、合戦当日(九月十五日)の午前中は一進一退の攻防であり石田方の諸将は善戦したとされてきたが、このように石田方の主力諸将は関ヶ原に打って出て家康方の軍勢と華々しく戦ったわけではなかった」と論じている(『関ヶ原大乱、本当の勝者』)。

 加えて、(慶長五年)九月二十日付近衛信尹宛近衛前久書状(「陽明文庫」)でも、前久は関ヶ原合戦について、東軍が「即時」に切り立てて「大利(大勝利)」を得たと伝えている。東軍関係者以外の同時代人が伝える戦況情報という点で軽視できない。同書状では小早川秀秋の裏切りにも言及しているが、秀秋の裏切りによって大谷吉継が討たれたとのみ記しており、秀秋の逡巡や「問鉄砲」、吉継の善戦については語っていない。通説が語る関ヶ原合戦の展開は後世の創作である、と白峰氏は結論づけている。

小早川秀秋の不穏な動きと西軍の対応

 白峰氏の議論に刺激され、在野の歴史研究者も関ヶ原論争に参戦した。その一人、高橋陽介氏は著書『一次史料にみる関ヶ原の戦い』を二〇一五年に自費出版し、さらに乃至政彦氏と共著で二〇一八年に河出書房新社から『天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった』を発表した(二〇二一年に文庫化)。

 高橋氏の主張は多岐にわたり、白峰説への批判も含まれている。しかし白峰氏の新説を支持している部分も少なくない。白峰・高橋両説の共通点として、小早川秀秋は関ヶ原合戦開戦前から東軍への寝返りを決断しており、事実上、東軍として活動していたという主張が挙げられる。
 

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関ヶ原合戦前日には東軍に加担