――京大に行って次々と成果を出されたわけですね。そもそも、どうして植物の研究を目指したんですか?
私自身は、植物をとくに研究したいと思ったわけではなく、生物の研究をしたいと思っていたんですよ。
私の両親は動物学者なんです。父は京大で学位を取ったのちに、新設された阪大の生物学科に教授とともに移り、その後、奈良県立医科大学を経て阪大の教授になりました。視物質のレチノクロームの発見者です。母は京都の女子大学で生物学を学び、京大で仕事をしていたときに父と出会い、結婚しました。昔気質の女性で、一歩下がって、ずっと父と一緒に同じ研究室の教官として研究していた。父は、生前、実験室でレチノクロームを最初に見つけたのは母だったと話していました。
――へえ~、でも、お母さまは表には出てこなかった。
そうですね。それを不満とは考えていなかったんでしょう。一緒に仕事ができていれば満足で、表に出ることは望んでいなかったと思います。母の父、私の祖父にあたる人は、政治学者でしたが、戦前の日本の思想統制で自死しています。34歳の若さでした。最近、祖父について書かれた新聞連載記事「たたかいのともし火」(1969年)を読み返して、このような統制は決してあってはならないと強く思いました。今の世界情勢を見て、その思いは強くなるばかりですね。おそらく母は、政治とはまったく無関係の理学、その中の生物学を選んだのだと思います。
――そうすると、お母さまはふだん家にいなかったんですね?
そうです。母親の母が同居していて、私と妹はおばあちゃんに育てられました。家は兵庫県宝塚市にあり、地元の小中学校に通い、大阪教育大学附属高校へ。そこで素晴らしい先生に出会い、当時は数学に魅せられていました。
>>【後編:「研究に没頭する女性教授がいてもいい」 新発見を重ねる女性植物科学者(73)を支えた父の教え】に続く