その検討によれば、真田丸は旧字名「真田山」の現「明星学院」付近であり、真田丸は北に出丸状の小曲輪(曲輪とは城や砦の周りを土塁や石垣、堀などで仕切った区画のこと)が付属した複郭構造で、全体としては正方形に近い五角形の平面形を有し、南北は小曲輪を含めて二〇七メートル余、東西は二〇八メートルほどの規模であったと指摘した。北側の惣構との間は最狭部でも一〇〇メートルの幅があり、独立性の高い出丸であったが、最狭部は惣構から火縄銃による火制が可能な距離で、完全に孤立しない絶妙な距離であるとしている(坂井:二〇一四)。
次に千田嘉博氏は、真田丸の場所は、明星学園から心眼寺にかけての一帯であったと指摘する。真田丸の持つ役割については、次のような見解を示した。千田氏は、「摂津真田丸」を見ると真田丸自体の内部が二つに分かれているとしている。そのうち北側の「二十間程」(一間は約一・八メートル)と書かれた小さなブロックについて、真田丸本体から独立した小さな曲輪と見なすべきと論じた。ここから真田丸は、本体と北側の小曲輪によって構成される二重構造であったとしている。
この小曲輪は、真田丸と小曲輪のさらに北にある惣構を結ぶ道を防御するため、敵が惣構に侵入し、北側から真田丸を脅かしたり、側面から攻めてきたりするという「非常事態」の際にここから迎撃するためのものであるという。さらに、この小曲輪と真田丸本体との間は堀で仕切られており、小曲輪が落ちても真田丸本体には最小限の影響で済むようになっていたとしている。そして真田丸は、あらゆる攻撃から単体で生き残れるように設計されており、一個の独立した城を惣構の外側に築いたというイメージで捉えるべきと指摘する。独立した城であるため敵が攻め寄せる南側だけでなく、北側に対する防御も必要となると述べる。
また、大坂冬の陣当時の上町台地の地形復元図を見ると、大坂城の弱点をカバーするならば、上町台地の中央、すなわち大坂城の南西側か南方中央に築くべきで、真田丸があったとされる場所よりももっと西側に築かなければならないとしている。にもかかわらず信繁が真田丸を築いたのは、本来敵が攻めてこない場所に築くことで敵を引き寄せることが目的であったとしている。大坂方も真田丸がそのような場所で、守りの要ではないので「新参者」の信繁に任せたといえる。このように真田丸は、「守り」ではなく、積極的に敵を迎撃する「攻め」の姿勢であったと結論づけた(千田:二〇一五)。
続いて平山優氏の見解を見ていきたい。平山氏は、真田丸の本体は明星学園敷地がほぼそれに相当すると思われ、真田丸は真田山と宰相山の台地を裾野とし、そこに柵列で囲繞(回りをとり囲むこと)された区画を作り出すことで、敵の侵入路を狭めつつ、限定させ、真田丸本体で迎え撃つように工夫したのではないかという。また真田丸南側の水堀は、東西の台地をちょうど分断し、それぞれから敵が左右に回り込まぬように台地の縁を切っている状況も見られるとしている。
このように、真田丸は、真田山と宰相山の台地を外郭とし、真田丸本体は丸馬出、そして惣構と平野口に接続する部分に「摂津真田丸」などの真田丸絵図にあるような小曲輪が存在した、いわば三重構造になっていたと想定できるのではないだろうかと指摘している。そして真田丸本体の規模は、南北は小曲輪の北側から真田山の南端台地縁までの約二二〇メートル前後、東西は約一四〇メートルという、おおよそ通説通りの規模で、現在の明星学園のほぼ敷地いっぱいの大きさではなかったろうかと述べる(平山:二〇一五年)。
真田丸の所在地については、明星学園付近と比定されている。その一方で構造については、いまだ定まっておらず、近年でも様々な見解が示され、議論が続いている状況である。今後も検討が続けられ、いずれ明らかにされるだろう。そして、それらの成果から大坂方や信繁の戦略についてもうかがい知ることができるのではないだろうか。