NHK大河ドラマのタイトルにもなった「真田丸」。大坂冬の陣において、徳川方を迎え撃つために築いた出城だが、実は近年になっても多くの見解が示されており、通説が定まっていない。真田丸自体について、これまでの研究を整理した。朝日新書『天下人の攻城戦 15の城攻めに見る信長・秀吉・家康の智略』(第十四章 著:草刈貴裕)から一部抜粋、再編集して紹介する。
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さて大坂冬の陣は、徳川家と豊臣家が対立したことによって発生した戦争であるが、その対立は、慶長十九年(一六一四)八月の方広寺鐘銘事件をきっかけに始まり、対徳川外交を担っていた片桐且元を追放したことで決定的になり、十月一日に徳川家康は諸大名に出陣を命じた。
そのような徳川家の動きに対して豊臣家は、諸大名や牢人たちに勧誘を行った。諸大名からの味方はなかったが、多くの牢人たちが大坂城に入った。真田信繁は、関ヶ原合戦で父真田昌幸と共に西軍に味方したため、高野山に追放となり、その山麓の九度山(和歌山県九度山町)に居住していた。信繁には、豊臣秀頼から支度金として黄金二〇〇枚・銀三〇貫が与えられ、入城後には五〇〇〇人の兵を預けることと、五〇万石の恩賞が約束され、信繁はこれに応じた。