後藤基次の関わりについては、史料によって異なる。一つは、当初後藤基次が任される予定だったが、大坂方の作戦変更によって遊軍となったため、信繁が引き継いだというものである(『大坂御陣覚書』)。もう一つは、後藤基次が出丸を築こうとしていたところに、信繁が勝手に縄張り(城の設計)を直し、独力で築いてしまったというものである(『落穂集』)。
この真田丸の構築者が、信繁かという問題を考える上で重要なのが、真田丸の完成時期である。真田丸は、『落穂集』によると十一月十五日に完成したと記されている。『落穂集』の記述を全面的に信頼することはできないが、少なくとも真田丸の完成時期は十一月中とされている。このように考えると信繁が造ったには期間が短すぎるため、真田丸の構築計画は大坂方がもともと持っていたと考えられている。また真田丸以外にも惣構に砦や柵が構築されており、真田丸もその一環と考えられている。
絵図「摂津真田丸」で読み解く所在地
ここからは真田丸の所在地について見ていきたい。大坂城は、大阪平野の南北に延びる上町台地に築かれている。東には平野川と湿地帯、西には木津川と湿地帯そして大阪湾、北には大和川と天満川といった自然の要害に囲まれていた。しかし、南(天王寺方面)にはそのような地形がなく、空堀がめぐらされていただけであった。この南側が大坂城の弱点であり、豊臣秀吉も晩年ここに惣構を築いた。そして真田丸もこの弱点を補うために惣構の南側に築かれたとされている。
真田丸の具体的な所在地については、三光神社付近で、そこには「真田の抜け穴」と呼ばれる抜け穴があり、信繁が大坂城との連絡に用いたと伝えられているが、これは否定されている。では、真田丸の所在地はどこなのだろうか。真田丸の所在地に関する研究は、軍記物の記述や絵図を基に検討が行われている。このような中で近年注目されているのが、浅野文庫『諸国古城之図』所収「摂津真田丸」である。この絵図を用いて複数の見解が示されている。
まず、坂井尚登氏の検討があげられる。坂井氏は、これまでの絵図利用の問題点として、絵図の作成者による誇張など歪みがあると指摘し、地形図と空中写真を用いて、それに絵図と同一地点と考えられる場所を設定し、分析を行った。