誘いに応じた信繁は、十月九日の夜に出立した。九度山へと付き従っていた家臣に加えて、正妻ら家族も同行したとされている。翌十日に大和五條二見城主の松倉重政に船で追われたが、信繁は入城に成功した。
この信繁入城は、高野山から徳川家にもすぐに知らされた。高野山からの使者は、十月十三日に三河国池鯉鮒(愛知県知立市)で家康側近の僧である金地院崇伝と会い、崇伝は同じく家康側近である本多正純に自身の書状と高野山からの書状を送っている。翌日には、先陣を務めていた藤堂高虎(伊勢国津藩)にも入城を知らせている。また、信繁の兄で真田家当主の真田信之(上野国沼田藩)は、十月二十四日までには入城を知っている。真田家では、信繁入城を知った家臣五〇人ほどが出奔している。
入城後の信繁は、毛利勝永・長宗我部盛親・明石掃部(全登)・後藤基次(又兵衛)とともに五人衆とされた。元大名の毛利・長宗我部らと同様の高い地位を得ていた。
真田丸は誰が構築したのか
大坂城に入った信繁は、真田丸と呼ばれる出丸(本城から張り出して築いた小城)を守ったことが知られている。この真田丸は、信繁が大坂城の弱点を見抜き築いたとされている。
しかし、近年では真田丸の構築者は信繁ではないとの見解が示されている。それによれば、大坂城惣構(城下町を含めた城の外周を掘・石垣・土塁で囲んだ防御設備)の防衛を強化するという方針があり、大坂方の計画に沿って構築されていったという。また、これには後藤基次が大きく関わっており、当初は後藤基次が守る予定であったとされる。