徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍がぶつかり、天下分け目の戦いと言われた「関ヶ原合戦」。その流れを決定づけ、徳川家康の覇権確立の上で重要な戦がある。それが美濃国の政治的中心であり、織田秀信が城主となっていた岐阜城(岐阜市)での戦いだ。木曽川を境に東西両軍がにらみ合うなか、慶長五年八月二十二日、東軍諸将は福島正則、池田輝政をそれぞれ大将とする組に分かれ、木曽川の渡河を開始。岐阜城は総勢四万人以上の大軍に攻められた。その経緯を朝日新書『天下人の攻城戦 15の城攻めに見る信長・秀吉・家康の智略』(第十一章 著:入江康太)から一部を抜粋、再編集して紹介する。
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開城までの短期決戦
慶長五年八月二十三日未明、福島正則の組と池田輝政の組は合流して、岐阜城に進撃した(『愛知県史』資料編13織豊3、九八四号、以下同書所収の史料は、愛○○○号と略称、一〇七一号)。攻撃を受け、岐阜城はわずか一日で落城する。以下、当時の書状や戦闘参加者の記録などから、その経過を見る。
まず攻撃目標となったのは、岐阜城下の惣構であった。福島正則の軍勢と行動を共にしていた尾張国小折(愛知県江南市)の領主生駒利豊の回顧によると、惣構の出入り口には門、土居、塀が設けられていた。生駒は土居に上り、塀を乗り越えて門を押し開けた。しかし、惣構に織田秀信の兵はおらず、攻撃側は反撃を受けることなく惣構を突破することができた(白峰b、愛一〇八八号)。