山上の城郭部に至った攻撃側は、大手門を突破し、埋門まで攻め込んだ。埋門は天守台際にあったと考えられており(白峰b)、もしそうだとすると、攻撃側は天守間際まで攻め込んでいたことになる。
追い詰められた守備側は、秀信の家老百々綱家と木造長政が、主君の身命の安全を条件に降伏を攻撃側に申し出た。福島正則は、井伊直政・本多忠勝と相談し、その了承の上で降伏を受け入れることになった。
織田秀信の降伏
降伏した織田秀信は、まず尾張国、ついで高野山に送られた。
秀信の配下に諏訪孫一という新参の家臣がいた。諏訪はこの戦いで籠城し、岐阜城落城当日の八月二十三日付で秀信から感状を与えられている(『岐阜県史』史料編古代・中世補遺)。その感状は、「土佐国蠧簡集残編」(国立公文書館所蔵)という史料集に収録されている。同史料集には感状に続けて、「岐阜中納言殿家老分籠城仕者之覚」という覚書(正保四年〈一六四七〉成立)が収録されている。感状、覚書は共に諏訪半兵衛という人物が所蔵しており、覚書は孫一のものと推測される。
この覚書から降伏の具体的な流れが確認できる。覚書によると、二の丸が攻略され、本丸が攻撃されるようになると、和議が結ばれることになった。そのことを井伊直政、福島正則の攻め手が触れて廻り、本丸の守備側と攻撃側との間で使者の出入りがあった。その結果、攻撃側からは森勘解由(尾張国刈安賀領主)が人質として城内に入り、守備側からは勘解由の甥で秀信の小小姓森左門が人質として攻撃側に差し出された。この人質交換は、和議を保証し、また秀信の生命の安全を保障することを目的としたものであったと考えられる。