
また、金華山から南に伸びた瑞龍寺山には岐阜城の南方を守る砦が築かれ、石田三成の家臣柏原左近が守備していた。浅野幸長、一柳直盛らは同砦を攻略し、柏原を討ち取った(白峰c、愛一〇〇一号)。
惣構を突破した攻撃側は、岐阜城の大手口である七曲から福島正則の軍勢が、搦手として達目洞から京極高知の軍勢がそれぞれ攻め上った。一般的に、もと岐阜城主で地形に精通した池田輝政が水の手口から攻め上ったことが知られている。しかし、最近の研究によると、このことは当時の書状に見られず、合戦参加者の後日談、さらには池田家家臣の武功集でも確認できない。現在確認できる、このエピソードの初出は、一七世紀半ばに成立した軍記物であり、後世の創作である可能性が高いことが指摘されている(内堀:二〇二一)。
城下で守備側の抵抗は見られなかった。しかし、攻撃側が金華山を登り、岐阜城に迫る段階になると守備側の抵抗が確認される。日野岡峠では攻撃側が四回押し戻されているが、この峠は、七曲が谷道から尾根道に切り替わる地点と考えられている(土山:二〇〇四)。
また武藤つふらでも、守備側は反撃を試みている(白峰b)。この武藤つふらは、七曲口を登った登城路にあった砦(内堀:二〇二一)、あるいは大手門の近くにあった曲輪の名称(白峰b)と考えられている。武藤つふらで反撃した者に与えられた感状によると、本人は敵の弓による攻撃で負傷し、その他にも負傷者が多数出たとあるので、攻撃側はそうした反撃を退け、守備側を追い詰めていったと考えられる。