八月二十三日の日暮れ、秀信は城を下り、町はずれの「もんと寺」(円徳寺のことか)に落ち着いた。秀信には森勘解由も同道し、寺で勘解由は秀信に弁当を振る舞った。秀信に同道した家臣は四、五人、そのうち家老は足立中務一人であった。秀信は、同日夜中に尾張国小折村(領主:生駒利豊)に向かい、翌二十四日の夜明け頃に到着した。勘解由は小折村まで秀信に同行し、同村到着後すぐに美濃国赤坂(岐阜県大垣市)に向かった。ちなみに勘解由は、九月十五日の関ヶ原合戦で討死した(愛一〇七七号)。
なぜ森勘解由は、和議締結を保証する人質に起用され、しかも秀信の小折村行きに同行したのだろうか。
実は勘解由と秀信には血縁関係があった。勘解由の母は生駒家宗の娘である。家宗の別の娘は織田信長の側室となり、信忠、信雄らを生んだ。また岐阜城攻撃に参加した生駒利豊は、家宗の孫である(松浦:二〇一七)。すなわち、森勘解由は信忠、利豊の従兄弟であり、秀信は勘解由から見て従甥にあたる。勘解由とその甥森左門が攻撃側、守備側双方の人質として起用された背景には、こうした血縁関係があった。秀信が小折村に向かったのは、領主生駒氏が祖母の実家であり、また生駒利豊は岐阜城攻撃に参加したが、秀信と最も近い親戚であることから、その身柄を引き受けたと考えられる。