岐阜城はなぜ、あっけなく落城したのか。最大の理由は兵力の少なさであろう。仮に秀信が一〇〇石につき五人(ちなみに上杉景勝討伐軍は一〇〇石につき三人)動員したとしても、総兵力は六六五〇人であり、攻撃側の兵力(総勢四万人以上)の四分の一にも満たない。加えて前日に池田輝政らに敗北し、将兵を失っている。先に紹介した諏訪孫一の覚書によると、二の丸に守備側が引き揚げた際、「侍」(部隊を指揮する身分の者か)三六人のうち、二〇人が狭間を潜り、堀を乗り越えて逃亡したとあるから、士気も落ちていたのだろう。また同じ頃、美濃国中では一揆が蜂起し、鎮圧のため秀信は家臣を派遣したと言われている(山本:二〇一四)。
こうして見ると、守備側は攻撃側に対して圧倒的に少ない兵力にもかかわらず、一揆への対処のため兵力を分散しなくてはならなかった。しかも八月二十二日に池田輝政らに敗北し、兵力をさらに減らした上で、攻城戦当日を迎えた。そうした状況では、士気も上がらず、逃亡者も現れ、短時間での敗北、落城となったと考えられる。
高野山に流された織田秀信は、慶長十年(一六〇五)に死去し、織田家の嫡流は断絶した。
慶長六年に奥平信昌が十万石で美濃国加納(岐阜県岐阜市)に転封されると、その居城として加納城が築城され、岐阜城は廃城となった。岐阜城跡、岐阜町は江戸幕府の直轄領となり、元和五年(一六一九)からは尾張藩領となった。金華山は尾張藩主の御山として、江戸時代を通じて同藩により管理された(『史跡岐阜城跡総合調査報告書』Ⅰ)。
岐阜城で戦いが行われている同じ頃、岐阜城救援のため石田三成らの軍勢が、大垣城から長良川右岸の河渡(岐阜県岐阜市)までやって来た。黒田長政、藤堂高虎らは長良川を渡り石田らの軍勢を撃破した。東軍諸将は赤坂まで進出し、大垣城の西軍とにらみ合う形勢となった。さらに尾張国内の西軍の拠点犬山城も九月初め頃までには開城した(山本:二〇一四)。岐阜城の落城により、西軍方の防衛ラインは木曽川から西美濃まで一気に後退し、また福島正則をはじめとする豊臣系の東軍諸将の帰趨は明確になった。