次に、築堤のための動員力などについても見直しが進んでいる。副堤(足守川西岸の足守駅の南に築かれた)ほどの規模で微高地を利用しつつ現在の高松駅付近から足守川までが結ばれるならば、築堤に要される土量はかつて推定されたほど多くはないとされた。もっとも、蛙ヶ鼻から高松駅付近までの低位部の約三〇〇メートルについては頑強な堤防が構築されており、この築堤と足守川までの微高地をつなぐ小規模な築堤を一二日間で完成させたとすると、驚異的な動員力であったとの評価もある(岡山市教育員会編:二〇〇八)。
一方で、(1)旧高梁川東分流の作った自然堤防が水攻め堤の代わりとして機能するため、その部分は水攻め堤を築く必要はなかったこと、(2)蛙ヶ鼻周辺の水攻め堤の規模に関しては、高さ一.五メートルでは高松城内の水深が船を用いるのに十分な深さになる前に水攻め湖が溢れてしまうため、約三メートルと推定されること、(3)その築堤(掘り出し・運搬を含む)に必要な人足は七〇四二人で、秀吉自前の兵力の約三分の一に相当することから十分に動員可能な人数であるとする見解が提示されている(根元・泉・中山・松山:二〇一三)。
このように、考古学・地理学的手法を用いた研究においても、秀吉の戦略が画期的か否かの結論は出ていないが、少なくともかつての通説のような大規模な築堤は必要なかったという点についてはほぼ共通認識となっているといえよう。