ところが、六月二日に勃発した本能寺の変によって織田信長が横死したという情報を得た秀吉が毛利氏に対して城主清水宗治らの切腹を条件に停戦を提案すると、毛利氏はその提案を受け入れた。毛利氏が停戦に応じた要因が水攻めのみでないとすると、他にどのような要因があったのだろうか。高松城を孤立させ自らは頑強な陣城を築いて(畑:二〇〇八)、持久戦に持ち込む準備を整えている織田方に対し、毛利方には力攻めするだけの兵力はなく、持久戦に耐えるだけの物資輸送手段に窮していたことをあげることができよう。

 六月四日、宗治は兄月清入道や小早川氏からの援軍末近信賀とともに切腹して、高松城は開城、高松城水攻めは終戦した。

戦後の高松城

 毛利氏との停戦協定を結んで上方へと攻め上った秀吉は、六月十三日の山崎合戦において明智光秀を破った。しかし、毛利氏との停戦協定は両者の全面講和ではなく、当面の軍事行動を行わない旨の約束に過ぎなかった。このため、秀吉方と毛利氏との間で引き続き国境画定交渉が行われた。この交渉は最終的に天正十三年(一五八五)初頭頃、備中国東部、美作国、伯耆国東部を毛利氏が秀吉方へ割譲することで決着した。

 その過程において、毛利氏は備前常山城、備中松山城、美作高田城(岡山県真庭市)、伯耆八橋城(鳥取県琴浦町)など、割譲対象地域内において現に支配している城郭を引き続き毛利氏領とするように要求しているが、高松城については交渉の対象となっていない。したがって、天正十年六月の開城後に秀吉方に引き渡された高松城は、秀吉勢撤退後も主に宇喜多勢によって守られ、毛利勢が奪回を試みることはなかったと判明する。

 豊臣期の高松城は宇喜多氏が領有したが、慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原合戦で宇喜多秀家が失領すると、文禄三~四年(一五九四~九五)頃に秀家と対立して宇喜多氏家中から退去し、関ヶ原合戦においては家康に荷担して東軍として参戦していた花房職之の居所となった。職之は宇喜多氏旧領のうち備中国都宇郡・賀陽郡において八〇〇〇石余を与えられ、高松城本丸に陣屋を置いたが、慶長末年頃から元和初年頃に陣屋を原古才(岡山市北区)へ移し、高松城は廃城となった。