城を攻める方法はさまざまだが、羽柴(豊臣)秀吉が何度も採用したのが水攻めだ。水攻めとは、城の周囲に堤防を築き、川の水を流し込むことで城を水没させる戦術。備中高松城の攻略でも用いられた水攻めは、通説では画期的な戦略とされてきた。では、考古学・地理学的手法を用いた研究ではどのような見解が示されているのか。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三人の天下人の攻城戦を解説した、朝日新書『天下人の攻城戦 15の城攻めに見る信長・秀吉・家康の智略』(第八章 著:光成準治)から一部を抜粋、再編集して紹介する。
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高松城攻撃は、水攻めを実現するための堤防を築造するという羽柴秀吉の画期的な戦略によって勝利したと考えられてきた。しかし、この理解は主に軍記類における記述に基づいたものに過ぎない。たとえば、『太閤記』においては、四月十三日に堤防工事が開始され、同月二十四~二十五日にほぼ完成し、五月一日から河水を引き入れたとされる。堤防の長さは三里(一里は約四キロ)、幅は上部六間(一間は約一・八メートル)、下部一二間とする。