備中高松城址公園(岡山県観光連盟提供)

 一方、高松城内に籠もっていたとされる中島元行の記した『中国兵乱記』においては、五月七日に工事が開始され、同月十三日に完成したとされる。堤防の長さは蛙ヶ鼻口から門前村までの三十町(一町は約一一〇メートル)余、幅は下部九間、高さは四間とする。その他、江戸期に成立した軍記類・編纂物における工事期間や堤防の長さなどに関する記述はさまざまで、長さの最短は『備中集成志』の一八町であるが、蛙ヶ鼻から門前村の距離として説得力に欠けるとされる(別府:二〇一一)。

 このような軍記類・編纂物の記述に則った通説に対する再検討として、近年、考古学・地理学的手法を用いた研究が進展した。

 水攻めのための堤防について、築堤の基底部の標高はおおむね三・五メートル前後であるため、高松城方面からの水の唯一の抜け口となっている蛙ヶ鼻付近における築堤高は最低でも高さ一・五メートル程度は必要であるが、最高でも五メートルを超えないと推定された(岡山市教育員会編:二〇〇八)。一方で、大雨さえ降れば築堤しなくても水攻めの状況を創出することが可能で、約三〇〇メートルの築堤によって十分水攻めの効果があったとする見解が提示されている(額田:二〇〇四)。もっとも、この見解でも標高が最も低い蛙ヶ鼻の築堤高は三間以上とされる。

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考古学・地理学的手法を用いた研究