古文書から見た水攻めの実像と終戦

 近年の考古学・地理学の成果を踏まえ、高松城水攻めに関する古文書を再検討する。

 秀吉は五月二十三日付で、味方が夜間に高松へ忍び出て空き船を回収したことにより、城内は打つ手を失ったと記しており(「総見寺所蔵文書」)、高松城周辺が船による航行可能な程度に水没していたこと、毛利方による船を用いた城内への兵糧補給を織田方が警戒していたことを示している。

 一方、毛利元就次男吉川元春は六月二日付で、敵が下口に堤防を築いて河水を氾濫させたため、高松城は水攻めされていると記している(「吉川家中并寺社文書」)が、毛利方として参陣していた安芸国人谷信直は五月二十二日付で、高松の水は以前より減っているように見えると記している(「厳島野坂文書」)。

 以上の検討から、五月上旬の比較的短期間で大規模とはいえない程度の水攻め堤が築かれたが、五月下旬には水位が低下していたことがうかがえる。したがって、船を用いない兵糧補給が困難な程度まで高松城が水没するか否かは、降水量に左右されていたと考えられる。五月下旬に低下していた水位がさらに低下する可能性を考慮すると、六月初頭の時点において、水攻めのみを要因として毛利氏に打つ手がなくなっていたとはいえない。

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戦後の高松城