
甲子園に何度も出場している強豪チームともなれば、同期の複数の選手がプロ入りする例も多い。1985年の東北高のように佐々木主浩(横浜-マリナーズ)、葛西稔(阪神)と同期の両投手がプロで揃って活躍する一方で、プロ入り後、控え投手がエースより活躍するなど、高校時代と立場が逆転したケースもある。
夏の甲子園優勝チームの控え投手が、プロ入り後、優勝投手になったエースを実績で大きく上回った成功例で知られるのが、ヤクルト・宮本賢治だ。
東洋大姫路時代は背番号10の控え投手。エース・松本正志は“江夏豊2世”と注目され、1977年夏の甲子園優勝投手になったあと、ドラフト1位で阪急に入団した。
一方、宮本は3回戦の浜田戦で5対0とリードした8回に松本のリリーフとして甲子園初登板をはたしたが、不運にも先頭打者のピッチャー返しの打球を手に受け、右手中指を裂傷。そのまま決勝戦まで登板できず、甲子園のマウンドは打者1人、たった5球で終わりを告げた。
この無念さをバネに、亜大で東都リーグ歴代4位タイの通算35勝をマークした宮本は、ドラフト1位でヤクルト入り。下手から横手投げに転向した90年に11勝を挙げるなど、14年間で55勝71敗7セーブを記録。プロでは通算1勝3敗に終わった松本とすっかり立場が逆転した。
翌78年夏にも、優勝したPL学園の背番号10で、甲子園では登板機会がなかった金石昭人(広島-日本ハム-巨人)が、プロ入り後、通算72勝80セーブを記録。優勝投手の西田真二(広島)は打者として活躍したので、単純に比較できないものの、2年連続で夏の甲子園優勝校の控え投手がプロで活躍したのは特筆に値する。
前出の金石が在籍した広島で、94年から3年連続二桁勝利をマークした紀藤真琴(広島-中日-楽天)も、中京(現中京大中京)時代は野中徹博(阪急-中日-ヤクルト)の控えで、春夏合わせて3度出場した甲子園では、3試合に登板し、2回1/3を投げただけ。最後の夏となった83年は、2回戦の岡山南戦で9回から野中をリリーフしたが、1死から3連続四死球を与え、打者4人で降板と、いい場面を見せられなかった。