だが、野中以上の球速と将来性を買われ、同年のドラフトで広島が3位指名。阪急1位の野中とともに揃ってプロ入りした。

 最初の3年間は2軍暮らしも、87年に1軍初昇格をはたした紀藤は、89年に中継ぎとしてリーグトップの61試合に登板。94年に16勝5敗で最高勝率のタイトルを獲得するなど、実働19年で通算78勝73敗16セーブの成績を残した。

 一方、野中は、プロ入り後7試合に登板しただけで、オリックス時代の89年に自由契約になったが、その後、台湾プロ野球を経て、94年に中日入り。ヤクルト時代の97年にNPB在籍10年目の初勝利を挙げている。

 また、中京で野中、紀藤の2年先輩にあたる伊藤敦規(オリックス-横浜-阪神)は、2年秋に外野のレギュラーになったが、同学年のエースがいたにもかかわらず、監督から未経験の投手転向を命じられ、背番号10をつけた。最後の夏は1年生・野中の台頭もあり、3対9で敗れた県大会準決勝の愛知戦は出番なしで終わった。

 だが、下手投げに転向して福井工大で素質開花。オリックス時代は先発、阪神時代はリリーフとして活躍し、通算56勝51敗11セーブを記録した。

 控え投手として自身と同じ思いを味わった紀藤が広島のエースに成長すると、伊藤は「お前、ずっと我慢して良かったな」と祝福している。

 高校、大学のいずれも“2番目の男”だったのが、石井丈裕(西武-日本ハム)だ。

 早稲田実時代は荒木大輔(ヤクルト-横浜)の控え。3年時の82年に春夏連続で背番号10を着けて甲子園に出場したが、登板2試合はいずれもリリーフ。同年夏の準々決勝、池田戦では、7失点の荒木を8回からリリーフしたが、水野雄仁(巨人)に満塁本塁打を浴び、再び荒木と交代している。

 さらに法大でもエース・猪俣隆(阪神)の2番手だった石井だが、西武入団4年目の92年、パームボールを武器に自己最多の15勝を挙げ、日本シリーズ第7戦でもヤクルト・岡林洋一と球史に残る投手戦を演じて、3年連続日本一の立役者に。

 プロで“ナンバーワン”になった男は、11年間で通算68勝52敗10セーブを記録し、荒木の39勝49敗2セーブを上回った。

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