出発は同年5月25日。前日には自宅周辺が空襲にあい、25日当日も東京駅などが爆撃され、明け方の空は真っ赤に染まっていたという。
どんな思いで金沢への汽車に乗ったのか。私が聞くと、藤井さんはゆっくり窓の外の空を見つめて言った。
「選ばれた自分たちだけが金沢に逃げていくという感覚でした。自分たちだけが教育を受けるということが、どうにも後ろめたくてね。空襲で亡くなった同級生もいたので、なんというんでしょうね。重たい気持ちでした」 とはいえ、当時はまだ中学生。同年代の子どもたちが集まり、学習だけでなく寝食もともにする体験は、親がいない寂しさを紛らわせてくれたという。柔道をしたり河原で仕送りのコメを炊いて食べたり。
「思い出は『空腹』だったこと。お互いに助け合った仲間とは、生涯の友人になりました」
■「君たちは新型兵器をつくる先兵だ」
一方、金沢での授業は厳しかった。三角関数や微分積分といった理数系の内容が多く、同級生と「偏っているなあ」と話した覚えがある。 日本の原子核物理学の父といわれた仁科芳雄博士の特別講義もあった。「君たちは新型兵器をつくる先兵だ」と言われたことを覚えている。
当時の藤井さんには何のことかわからなかったが、その年の8月、広島と長崎に原子爆弾が落とされたことを知らされると、「新型兵器とはこのことだったのか」と思い至ったという。藤井さんは「米国はすでに完成させていたのに、日本は中学生に科学教育を受けさせていたのだから、腹が立ち、情けなくなった」と回顧した。
終戦を告げる玉音放送は、寮の庭で聞いたという。その数日後、同級生らとともに金沢駅から上野駅までの汽車に乗って帰った。「やっと終わった、これでぐっすり眠ることができる」。こみ上げた思いは、これだけだったという。「私はあんまり勉強が得意ではなくて、当時受けた教育についてはほとんど覚えていないんですよ。仲間と濃密な時間をすごし、命を永らえたという意味では、特別科学教育は受けてよかったとは思いますが……」と複雑な表情で語った。