■雪の日に熱燗片手に仏とは何かと仲間と議論
祖父・吉水現祐(げんゆう)は文部省(現・文部科学省)に勤務。戦時中は戦場へ駆り出され、戦後は山谷地区の環境整備に尽くし、台東区議会議員を5期務めた。父・吉水裕光(ゆうこう)は子ども会や生活相談など地域に寺を開く活動に努めた。その父のもと、幼稚園の頃にはもう、朝、父と一緒にお念仏をした。お念仏とは「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」を唱(とな)えること。小学校で将来の夢を「お坊さん」と書き、クラスで請われて読経をすると拍手が起きた。長い休みには父のおともで京都の知恩院に手伝いに上がった。こうした環境がお坊さんに対する肯定的な思いを植えつけたのだろう。だが、それが44歳の現在に一本道につながったわけではない。
吉水は高校を卒業すると祖父と父が学んだ大正大学に進学した。大正時代に仏教の複数の宗派が仏教教育の専門大学としてつくった大学で、寺の子弟が多く集まっていた。
優等生。1学年後輩の金田昭教(しょうきょう・43)は吉水にこんな印象を持ったという。
「いかにもお寺の後継の優等生という感じで、言うことも正しい。僕は苦手でした。なるべく近づかないようにしていました」
金田は北九州市の浄土宗の寺に生まれた次男坊。僧侶の資格をとるために進学したものの、鬱々(うつうつ)としていた。世襲で寺を継ぐことに反発を持つ学生は少なくなかった。正反対の2人を結びつけたのは、学問としての仏教だった。
あるとき吉水はボランティアとして参加したこども会で、小学生から「仏様ってどこにいるの」と尋ねられ、「見えないかもしれないけれどあなたのすぐ近くにいるよ」と答えた。だが空虚な言葉に後ろめたさを覚えた。慣れ親しんだ仏のことを自分は何もわかっていないと気づかされ、卒論で浄土教を学び直そうとした。このとき「自分にとって仏様とはいかなる存在か」を考え始める。
論文を指導した当時の大正大学教授・金子寛哉(かんさい・85)はこのように吉水を見ていた。