原敬首相が刺殺された東京駅の現場
原敬首相が刺殺された東京駅の現場
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 普段から多くの人々が利用し、日本の発展を支えている鉄道。市井の人々にとって日常のものではあるが、日本の歴史に深く関わることも。政治学者であり、鉄道をこよなく愛する原武史さんの新著『歴史のダイヤグラム<2号車> 鉄路に刻まれた、この国のドラマ』(朝日新書)では、鉄道と人物とが交差する不思議な物語が明かされている。同書から一部を抜粋、再編集し、紹介する。

【政治家が狙われた過去の主な事件】

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■原敬暗殺事件と関東大震災

 一九二一(大正一〇)年一一月四日午後7時20分、現在の東京駅丸の内南口に、首相の原敬が現れた。原は京都で開かれる立憲政友会の大会に出席するため、東京を7時30分に出る神戸ゆきの夜行急行列車に乗ろうとしていた。

 原が改札口に向かおうとしたときだった。円柱の陰から紺絣(こんがすり)に鳥打ち帽の青年が飛び出し、原に体当たりした。その反動で尻もちをついた若者の手には、血塗られた短刀が握られていた。原は直ちに駅長室に担ぎ込まれたが、即死の状態だった。

 青年の名は中岡艮一(こんいち)。年齢は一八歳で、大塚駅の職員としてポイントの操作を担当していた。「なぜ首相を刺そうという考えを起こしたか」との予審判事の尋問に対しては、「つまり政治に私を入れる(私利私欲の意味)からやりました」と答えている(猪瀬直樹『ペルソナ』)。だが単独犯だったのか、背後に黒幕がいたのかについてはいまもわかっていない。

 そもそもなぜ中岡は、原が丸の内南口に現れることを知っていたのか。一〇月三〇日の『東京朝日新聞』夕刊には、原が四日午後7時30分東京発の列車で京都に向かうという記事が出ていたが、それ以上の情報はなかった。

 当時の東京駅はまだ八重洲口がなく、丸の内口は中央口が皇室専用、北口が降車専用、南口が乗車専用という具合に分かれていた。大塚駅の職員だった中岡は、当然東京駅の構造についても熟知していたはずだ。原が通るのは南口以外あり得ないことを察知し、新聞から得た情報をもとに改札口付近で待ち構えていたのだろう。

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