だが新聞は、はじめから犯人が誰かを報道できていたわけではなかった。それどころか一一月四日に出た『大阪朝日新聞』の号外は「犯人は鮮人」とし、第二号外でも「朝鮮人風の一青年現はれ出(い)で」と記している。この「鮮人」が当時の蔑称であることは言うまでもない。
紺絣に鳥打ち帽をかぶった青年がなぜ「朝鮮人風」に見えたのか、記事には全く説明がなかった。もちろん一一月五日の朝刊では中岡艮一の名が掲載されたが、号外は記者の主観で書かれた可能性が否定できない。これほどの事件を起こしたのは朝鮮人に違いないという主観だ。
ここで思い出すのは、原敬暗殺から二年後の二三年九月一日に起こった関東大震災である。よく知られているように、震災の直後から朝鮮人が暴動を起こしたというデマが広まり、彼らが多く殺害された。
根拠なき主観をあたかも事実のように信じ込んでしまう傾向は、すでに原が暗殺された時点での新聞報道にはっきりと表れていたのだ。これもまた忘れてはならない歴史の一断面だろう。
■鶴見事故が左右する運命
私が小学生だった一九七〇年代前半には、悲惨な航空事故や新左翼などによるハイジャック事件が相次いだ。それに比べれば、鉄道は安全な乗り物と思われていた。
もう一〇年早く生まれていたら、そうは思わなかっただろう。六〇年代前半には、三河島事故、鶴見事故といった大規模な鉄道事故が相次いだからだ。中でも六三(昭和三八)年一一月九日に横浜市内で起こった鶴見事故では一六一人が亡くなり、戦後発足した国鉄で最悪の鉄道事故となった。
事故のあらましはこうだ。午後9時50分ごろ、鶴見-新子安間で脱線して傾いた下りの貨物列車に上りの横須賀線電車(一二両編成)が進入して激突し、その一両目が、異常を発見して減速していた下りの横須賀線電車(同)に乗り上げた。このため下り電車数両が大破し、上り電車数両も大破、脱線した。ちなみに当時はまだ、横須賀線と東海道本線が同じ線路を走っていた。二本の電車が事故に巻き込まれたことで、死傷者の数は大きくふくらんだ。