1990年代半ばから毎年のようにFAなどで大型補強を繰り返している巨人。その結果、2軍で結果を出しながらも、巨大戦力の陰で埋もれてしまった選手たちも多い。
長嶋茂雄監督から名前を間違われたエピソードで知られるのが、2000年に逆指名(2位)入団した右サイドの谷浩弥だ。
社会人の田村コピー時代に“斎藤雅樹2世”と注目を集めたが、長嶋監督は所属チームの印象が強かったのか、「田村君」と呼んでいた。
当時の巨人はエース・上原浩治はじめ投手陣が充実。谷は02年にイースタン最多の13勝を挙げたが、1軍からお呼びがかかることはなかった。
そして、25歳になった翌03年6月6日の横浜戦で、待望の1軍初登板が実現する。
5対7の6回から先発・高橋尚成をリリーフした谷だったが、先頭の古木克明に四球を与えたのをきっかけに2死満塁のピンチを招き、中根仁の右中間三塁打でほろ苦い3失点デビュー。「緊張はしなかったけど、思った以上に力が入ってしまいました」と反省しきりだった。
だが、原辰徳監督は「悪くないと思います。戦力になってほしい」と次戦に期待をかけた。
そのチャンスは思いがけない形でやって来た。6月11日のヤクルト戦、1対0とリードの2回、先発・ラスが危険球退場となり、1死一、二塁で緊急リリーフしたのが谷だった。
まず花田真人を三ゴロに打ち取り、2死。ここまでは良かったが、直後、飯田哲也に逆転3ランを許し、続投の3回にも鈴木健に3ランを浴びて悪夢の6失点KO。無念の2軍落ちとなった。
これが1軍最後のマウンドとなり、同年オフに非情の戦力外通告。翌04年はロッテに移籍も、わずか1年でユニホームを脱いだ。
巨大戦力のチームでは、数少ないチャンスで結果を出さなければ「次はない」ということを痛感させられる。
高い身体能力を持ちながら、1軍の厚い壁に阻まれたのが、98年にドラフト3位で入団した山田真介だ。