ノリタケドームの採算ラインは、年間200日稼働が最低条件とされ、中日の本拠地になっても、年間65試合。残り130日余りをどうするかで、関係者は頭を痛めていた。

 もし名古屋五輪が実現していれば、多くの関連イベントも開催できたが、それも期待できなくなった。

 そして、84年1月、同社の倉田隆文社長は、採算問題を理由に計画の白紙撤回を発表。ノリタケドームは幻と消えた。

 実は、1950年代にも、ドーム球場の建設計画があった。

 58年6月に日本テレビの清水与七郎社長が発表した新宿の屋根付き球場構想だ。

「大衆とともに25年、沿革史」(日本テレビ放送網社史編纂室編)によれば、世界一の屋内スポーツ大殿堂の建設を目指していた鮎川義介日本中小企業政治連盟総裁が、日本テレビの初代社長だった正力松太郎国務大臣に計画の引き継ぎを依頼し、新宿区東大久保の所有地3万3000平方メートルを日本テレビに売却したのが始まりだった。

 計画には、野球以外のスポーツや演劇などの催し物も可能な設計にして、近い将来のカラーテレビ全盛時代に対応できるよう、スタンドの下に大スタジオをつくる案も盛り込まれていた。

 だが、62年に“光の球場”東京球場が完成したことなどから、計画は自然消滅。60年代後半、この敷地に高さ550メートルの世界一高い電波塔“正力タワー”の建設が計画されたが、こちらも実現することなく終わっている。

 近年では、巨人の“築地新球場”構想も記憶に新しい。

 石原慎太郎前都知事は、16年の東京五輪誘致と築地市場の豊洲移転計画を進めていたが、当時水面下で検討されていたと伝わるのが、五輪誘致前に築地市場の豊洲移転が完了することを前提に、東京ドーム5個分の敷地を持つ築地市場跡に五輪用の新球場を建設し、五輪後には巨人の新本拠地になるという話だった。

 この構想は、老朽化した東京ドームに代わる新本拠地を探していた巨人にとっても願ったり叶ったりだった。

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幻に消えた巨人の新球場構想