プロ野球の長い歴史の中には、建設計画が発表されながら、諸々の事情で実現しなかった“幻の球場”がある。
日本のドーム球場第1号は、1988年にオープンした東京ドームだが、それ以前にも、屋根付き球場を建設する計画があった。名古屋市に建設予定だったノリタケドームだ。
79年7月20日、中日新聞が1面トップで「名古屋に全天候型球場」の大見出しをつけ、名古屋市に本社を持つ日本陶器(現ノリタケカンパニーリミテド)が日本初の屋根付き多目的スタジアムの建設を計画していることをスクープした。
創立75周年を迎えた同社の岩田蒼明会長が記念事業のアイデアを募っていたときに、滞米経験の長い杉本悌二郎社長が、ヒューストンのアストロドームを例に出し、ドーム球場建設を提案したことがきっかけだった。
「地域社会の国際的発展に少しでも寄与できれば」と実現に向けて動き出し、大成建設に打診するところまで話が進んでいた。
計画によれば、ノリタケドームは名古屋市西区則武新町の本社工場跡地(約3万8000平方メートル)に地上5階建て、最高部の高さ69メートルの多目的スタジアムを建設。野球を中心に各種スポーツ、イベントの会場に利用されるというもの。名古屋駅にも近く、立地も最高だった。
82年3月に着工し、完成は中日の新本拠地としてシーズンを迎える直前の84年2月に予定されていた。
総工費は150億円。土地と建設費の半分を同社が提供し、残りは地元財界に出資協力を要請する。当時名古屋は、88年開催の夏季五輪誘致を進めている最中。ノリタケドームがオープンし、4年後に名古屋五輪も実現すれば、かなりの経済効果が見込まれた。
だが、翌80年5月、推進役の岩田会長の死により、計画は空転しはじめる。遺志を継いだ杉本社長も、計画頓挫の噂が出るたびに「ドームは必ず実現」と言明したが、81年8月、病に倒れ、志半ばで退任した。
その後、総工費も200億円に高騰。地元財界への資金協力の根回しも思うように進まず、電波障害、騒音などの環境アセスメント問題でも予想を遥かに上回る時日を要した。
さらに81年9月、88年の夏季五輪開催地がソウルに決定し、名古屋が敗れたことが、決定的なダメージとなる。