明治維新による新政府樹立後、多くの藩は財政難にあえいでいた。戊辰戦争により出費がかさんだうえに、新政府により藩歳入の使い道まで定められたためである。苦境に立たされ廃藩を申し出るところも多かったが、金策に走りどうにか乗り切ろうとした藩も存在した。その金策のひとつに、「偽金」がある。河合敦著『江戸500藩全解剖 関ヶ原の戦いから徳川幕府、そして廃藩置県まで』(朝日新書)では、偽金造りを行った二藩の行く末が記されている。同じく偽金造りを行ったにもかかわらず、それぞれの藩の未来は全く異なる結果となった。その理由とは――。
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幕末、諸藩は財政の苦しさから多くの藩で偽金作りをおこなっていた。薩摩藩などはその代表だったが、明治になっても財政難が解消されなかったことで、相変わらず偽金を造り続けている藩があった。そんな不正行為を大規模におこなったのが加賀藩前田家の支藩・大聖寺藩(10万石)だった。
戊辰戦争のさい大聖寺藩は、新政府から大量の弾薬(パトロン)の製造を命じられた。だが財政難だったことで資金繰りに窮し、金銀細工に詳しい下士・市橋波江を責任者として二分銀の偽金製造を命じたのである。市橋は一分銀や銀のかんざしなどを溶かし、不純物を加えて銀メッキを施した偽金を俵に詰め込んで山代温泉に持ち込み、数日間、温泉に沈めた。そうすると、偽金は本物のように古く見えるからだ。
このため上方や越後では、大聖寺藩の偽金の評判が上がった。一枚の偽金は4倍のもうけを生むので、藩では上方に商店をつくって大量に銀の道具を買い入れた。また、藩では重臣の石川専輔が中心となって蒸気船を製造して琵琶湖の舟運に乗り出していった。こうした羽振りの良さが他藩の妬みを買い、偽金造りを新政府に密訴されてしまった。このため新政府も動かざるを得なくなった。大聖寺藩は石川専輔を京都に派遣して事態のもみ消しに奔走、最終的に市橋波江に全責任を押しつけて自害させることで改易や減封といった処罰を免れ、事なきを得たのである。
なお、波江の子には禄高を倍増し、その労に報いたという。いまも地元・錦城山(大聖寺城跡)には偽金をつくっていた洞穴が現存する。