春夏合わせて3度全国制覇をはたした帝京高・前田三夫監督も、当初はスパルタ式だった。
72年1月、大学在学中の22歳で監督に就任した直後、35人の部員たちの前で「みんなで頑張って甲子園に行こう」と挨拶した。
「僕は選手たちが『頑張る』という目で見てくれると思った。そしたら、みんな腹を抱えて笑った。夢がなさ過ぎるじゃないかと失望して、厳しい練習をしたら、1週間経ったら10人抜け、2週間経ったらまた抜けで、最終的に4人になった。それで、残った4人には、頑張って何とかひとつぐらい勝って、喜びを味わわせてやりたいと夢中でした」。
そんな熱血指導でチームは年々強くなっていったが、甲子園まであと1歩というところで、早稲田実に阻まれつづけた。
夏の大会では、帝京ナインはげっそり痩せて疲れきった表情をしているのに、早実ナインは丸々と肥え、エネルギッシュに見えた。「この差は何だろう?」と考えたとき、いつも柔和な表情で選手たちを見守っている和田明監督の姿に思い当たり、顔から火が出る思いだったという。
それまでは選手が欠点を露呈すると、「この野郎、何度言ったらわかる!」と怒鳴りつけていたが、「選手の長所まで殺すことになる」と気づかされた。
以来、良い守備ができたときに「今の動きを忘れるな」と褒めるようになった。自主性に任せられないことは厳しく管理したが、柔軟な指導法に変わっていくにつれ、スパルタは少しずつ姿を消していった。
06年夏の準々決勝、智弁和歌山戦で、ナインが心をひとつにして球史に残る大熱戦を演じたあと、選手への接し方が変わったといわれる前田監督だが、何十年もの長いプロセスを経て、少しずつ変わっていった結果とも言えるだろう。
東邦高時代の89年春に優勝し、大垣日大時代の07年にもセンバツ準優勝をはたした阪口慶三監督も、かつては“鬼の阪口”と呼ばれるほど、厳しい指導ぶりで知られた。
暗くなるとボールに石灰をまぶしてノックをし、夜中の1時半まで練習を続けたこともあった。