大垣日大の阪口慶三監督
大垣日大の阪口慶三監督
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 夏の甲子園も熱戦たけなわ。歴戦の名将の中には、かつては“鬼監督”と選手たちに恐れられたのに、幾星霜を経て、穏やかな“仏”に変貌した監督も多く存在する。

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 横浜高を春夏合わせて5度の日本一に導いた渡辺元智監督もその一人だ。

 24歳で監督に就任した当時は、自分がかつて現役時代にたたき込まれた「スパルタ式」の練習法で、選手たちをしごきにしごいた。

 鉄拳制裁もよくした。暗くなってボールが見えなくなると、車のライトをつけて夜中までノックを続け、試合に負けると、学校まで20キロの道のりをランニングさせるなど、「ライバル校より多く練習さえすれば勝てる」と思っていた。

 そのスパルタ式で、1973年にセンバツ優勝を勝ち取ったが、「今考えると、独善的でロスの多い、極めて乱暴な練習法のひとつだったと思います」(「私の高校野球」報知新聞社)と、選手たちに自ら考える余裕と独創のチャンスを与えなかったことを反省している。

 実は、鬼から仏に変わるきっかけとなる出来事が起きたのも、同年のセンバツだった。

 決勝の広島商戦、0対0の延長10回に1点を勝ち越した横浜は、その裏、1死二塁のピンチを迎えたが、次打者はレフトの守備範囲に飛球を打ち上げた。

 ところが、「これで2死」と確信した直後、富田毅がグラブに当てながら落球し、試合は1対1の振り出しに。

 これまでなら、頭ごなしに怒鳴りつけるところだが、ベンチに戻って来るなり、「すいません……」と謝り、目を伏せた富田を見た渡辺監督は「気にするな、トミ」と本心とは正反対の言葉を自分自身でも驚くほど、さらりと口にした。

 そして11回、打席に向かう富田を「気にしないで、伸び伸び打ってこいよ」と励ますと、レフトポール際に劇的な決勝2ラン。「あのとき、きつく叱っていたら、こういう結果にはなっていなかったかもしれない。彼はいい経験をして、それ以上に私も富田によって、いい勉強をさせてもらった」と実感したという。

 それから25年後の98年、「目標がその日その日を支配する」を座右の銘に春夏連覇を成し遂げた名将は「すごいピッチャー(松坂大輔)をはじめ、いい選手たちにめぐり会えた幸せに感謝したい」と涙ぐんだ。

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帝京の名将が“変わった瞬間”