“村神様”ことヤクルト・村上宗隆が日本人選手では1964年に王貞治(巨人)が記録した55号を抜き、58年ぶりにシーズン最多の本塁打数を更新。自身の背番号である「55」をついに追い抜いた。
55番は「王の55本を目標に」という期待を込めて松井秀喜(巨人-ヤンキースなど)が背負って以来、未来の大砲候補に託される例が多くなったのは、ご存じのとおりだ。
村上もヤクルト入団時に「背番号55番といえば松井秀喜さんだが、いずれは、55番は村上と言われるようになりたい」と語り、見事夢を実現した。
だが、松井や村上のように球界ナンバーワンの強打者に成長した例は稀で、花開くことなく消えていった55番も数多い。
松井の“ゴジラ”よりインパクトのある“スーパーゴリ”が愛称だったのが、佐藤吉宏(日本ハム)だ。
鳥栖高時代は通算40本塁打。ドラフト2位で日本ハムに入団し、2年目の03年にイースタンで7本塁打を記録したが、1軍の壁は厚く、6年間2軍暮らしが続く。
だが、07年にプロ2軍と大学生で構成された北京プレ五輪の日本代表に選ばれ、打率5割をマークしたことが大きな転機となる。
翌08年4月19日のソフトバンク戦、7番レフトでプロ初スタメンに抜擢された佐藤は2回の初打席で、プレ五輪のチームメイト・大場翔太から右越えに先制2ラン。4対2の勝利後、プロ初のお立ち台で、「ずっと芽が出なかったのに、見捨てないでくださったことを感謝しています」と苦労人らしいセリフを口にした。
さらに翌09年7月7日、7番レフトで出場した西武戦でも、2回に岸孝之から右越えソロを放ち、2年連続初先発出場試合の第1打席で本塁打を打つという珍記録をつくった。
その後、8月18日の楽天戦でも岩隈久志から代打ソロを放ったが、10試合出場にとどまり、同年限りで現役引退となった。
02年にドラ1で中日入りした中京大中京の捕手の前田章宏も、高校通算31本塁打を記録し、「城島健司に匹敵する逸材」と注目された。