入団時から55番を着け、03年オフに就任した落合博満監督が高橋光信、田上秀則、幕田賢治らとともに右の和製4番候補に挙げたことでも知られる。

 だが、“将来の正捕手候補”も、1軍では毎年数試合出場の第3、第4の捕手にとどまり、1軍では0本塁打のまま13年限りで現役引退。ブルペン捕手になった。

 入団時は別の背番号だったのに、55番に変えた選手もいる。

 04年の首位打者“赤ゴジラ”嶋重宣(広島)が有名だが、同じ04年に22番から55番に変えた阪神時代の喜田剛もその一人だ。

 05年にウエスタンで21本塁打を記録。翌06年にも、ロッテとのファーム日本選手権で、1回に成瀬善久から先制2ランを放ち、5番・桜井広大、6番・藤原通とともに3者連続本塁打の快挙も達成した。

 だが、2軍通算61本塁打の長距離砲も、当時12球団で最も充実していた1軍外野陣に食い込めず、07年5月に山田真介との交換トレードで広島へ。55番は嶋が着けていたため、44番になったが、5月30日のロッテ戦で清水直行から右越えにプロ1号を放ち、「6年目でやっと出ましたね。(広島ファンの)温かい声援を貰って、その中で打てたのがうれしい」と感激に浸った。

 広島では在籍3年で9本塁打を記録し、レギュラー獲り目前までいったが、活躍は長続きせず、11年の横浜を最後にユニホームを脱いだ。

 06年に育成1位でソフトバンク入りした小斉祐輔は、PL学園時代の同期に朝井秀樹、今江敏晃らがおり、東農大生産学部時代に通算30本塁打を記録。1年目の6月に支配下登録され、08年から楽天に移籍するまで4年間背番号55を着けた。

 08年5月6日の楽天戦で永井怜から育成出身の選手では初めてとなるプロ1号を放ったが、2軍では2年連続打点王を獲得した“松中2世”も、1軍通算7本塁打に終わった。

 最後にヤクルト歴代の主な55番を振り返ってみよう。実は、通算224本塁打の杉浦享も71年の入団時から7年間55番を着けている。ただし、投手として入団したので、結果的に強打者の出世番号になった形だ。

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村上の前に「55」をつけた選手が歩んだキャリア