発掘で判明した桑下城。断面に意図的に埋められたV字形の堀が見える(写真/千田嘉博)
発掘で判明した桑下城。断面に意図的に埋められたV字形の堀が見える(写真/千田嘉博)

 さて、桶狭間の戦いは、大軍を率いた義元が信長による本陣直接攻撃を受けて不覚をとったと説明されてきた。確かに桶狭間だけを見ればその理解は間違いではない。しかし、広い視野で城から見直すと、信長勝利の秘密が読み解ける。尾張と三河は南北に長く国境を接した。攻める義元はどこからでも尾張へ進出できた。守る信長が長い国境を等しく守ろうとすれば、兵はまばらになった。信長にとっては、義元の進撃ルートを見定めて、兵を集中するしか勝利の可能性はなかった。

 予測される義元の進出ルートは二つあり、ひとつは現在の愛知県豊田市から瀬戸市へ抜け、庄内川に沿って進む道だった。このルートは家康の祖父、松平清康が尾張攻めに用いた実績があり、信長の清須城へ最短距離で進軍できた。そこで義元も瀬戸市に品野城と桑下城という拠点を構えて、この攻め口を確保した。そして、もうひとつのルートが実際に起きた桶狭間を通る道だった。

 信長は1558(永禄元)年に品野城・桑下城を攻めた。義元の攻め口を潰そうとしたのだった。信長は付城で城を包囲したが、城兵の逆襲に遭って大敗してしまった。そこで信長は次に桶狭間ルート上にあった義元の進出拠点、鳴海城と大高城(いずれも愛知県名古屋市)の周囲に付城を築いて城を締め上げた。兵糧が欠乏した両城は義元に援軍を求め、ついに義元が桶狭間に進んできたところを信長が攻撃して勝利した。つまり戦いの場所やタイミングを決めるイニシアチブ握っていたのは信長だった。

 山城の品野城と丘城の桑下城は二つが一体になって国境を押さえた。愛知県埋蔵文化財センターによる桑下城の発掘成果によると、城の堀は意図的に埋め戻されていて、大きな堀があるとは発掘前には気がつけないほどだった。これは城をわざわざ破却した証拠で、歴史的背景から見て、徳川家康が信長と戦わない証しとして壊したと考えられる。ていねいな城の破壊は、家康の律儀な性格と信長への厚い信頼を物語っている。

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