2023年のNHK大河ドラマ「どうする家康」が始まった。初回でさっそく描かれた「桶狭間の戦い」だが、これまで織田信長の奇襲の結果と言われてきたこの戦、近年は戦いの最初からイニシアチブを握っていたのは信長だったと、従来の説への見直しが迫られている。
【写真】発掘で判明した桑下城。断面に意図的に埋められたV字形の堀が見える
国内外の城に精通し、テレビ・ラジオや講演で大人気の城郭考古学者・千田嘉博先生の最新刊『歴史を読み解く城歩き』から、一部抜粋し、桶狭間の戦いの舞台と両陣営の布陣、善照寺砦、桑下城の最新の発掘調査の成果でわかる信長と家康の信頼関係を紹介する。
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【善照寺砦・桑下城】城を破却して信長への恭順を示す
1552(天文21)年に織田信秀が死ぬと、三河との国境に領地をもった名古屋市の鳴海城主山口教継が織田信長を見限って今川義元に従った。これによって、尾張国内に公然と「親今川の勢力」が出現した。織田のおよそ10倍という圧倒的な今川の軍事力を前に、織田家中は現状追認派が多数を占めた。しかし信長は義元の「一方的な現状変更」を認めず、戦いを選んだ。
その後、義元は鳴海城と同じく名古屋市にある大高城に、自らの直臣である岡部元信、朝比奈泰能を入れて尾張南東部の支配を固めた。信長は、鳴海城・大高城のまわりに監視のための付城を築いて包囲し、領土を回復しようとした。1560(永禄3)年、付城が奏功して両城の落城が迫ると、義元は「信長軍の攻撃で危機に陥った家臣を救う」ため出陣した。徳川家康もその先備えを務め、大高城の解放と兵糧の搬入に成功した。
信長は義元の出陣を予測していた。そのため今川方の鳴海城東側に、今川軍の侵攻状況を把握するための善照寺砦をあらかじめ築き、迷わずこの砦に入った。名古屋市にあるこの砦は従来、鳴海城を包囲した砦のひとつとされてきた。しかし、現地に立つと、この砦は鳴海城を監視するのとは反対側の丘陵先端にあって、今川軍の動きをつかむレーダー基地の役割だったとわかる。この善照寺砦で義元本陣が主力軍から孤立して布陣するのを発見した信長は、義元本陣を急襲して勝利した。
この桶狭間の戦いは徳川家康にとって大きな転機になった。今川義元の死によって、家康は自立した戦国大名になれた。そして、家康は織田信長と同盟を結んで尾張との戦いに終止符を打ち、東へ領国を拡大していった。