結婚を諦めた母は、そのとき父の家から受け取った資金を使い、20代後半で「渡邉看護婦会」(看護師紹介所)を東京・青山で開業。働きながら育ててくれました。誰の人生にもいくつかの岐路があるものですが、私の場合、生まれた瞬間が最初のターニングポイントだったのかもしれません。
「自分の家は普通の家と違う」
と気づいたのは、小学校に入学したあとのことです。物心ついて初めて父に会ったことで、「なぜ、父は毎日うちに帰ってこないのか」という疑問を持つようになり、母に何度も尋ねたことを覚えています。そのとき、母から「父には別の家がある」と聞きました。父にはそのとき、別の家庭があったのです。
未婚の母がまだ珍しかった時代、母に対する風当たりや偏見は今よりもずっと強かったと思います。
小学校の友だちに、「みどりちゃんのお母さんはお妾(めかけ)さんよね」などと言いふらされ、「学校に行きたくない」と母に訴えたことがありました。
中学生のころ、私の名付け親でもある父方の祖母のお葬式へと出かけたときには、父の家族から「金銭目当てではないか」と疑われ、早々に追い出されてしまったこともありました。帰りの列車の中、屈辱感で涙が止まらなかったのを思い出します。
そんな生い立ちを知っている人からは「よくグレなかったわね」などと言われます。
けれども愚痴ひとつこぼさず、忙しく働く母の姿を見ていたら、そんな気にはなりませんでした。また母の仕事柄、人の出入りも多く、にぎやかな家庭だったため、さみしさを感じずにすんだのもよかったのでしょう。住み込みの看護師見習いの女性たちからは、ずいぶんとかわいがられました。
母は非常に教育熱心で、小学校時代、あまりできのよくなかった私に対しては「さあ、勉強、勉強」が口癖でした。高校卒業後、「短大で……」と尻込みしていると、大学への進学をすすめたのも母でした。
大学受験では、共学になったばかりの早稲田大学と、看護学校にも合格していたため、周囲からは「看護師になって、看護婦会を継いだほうが……」と随分すすめられました。けれども、私の夢を知っていた母は、
「親も子も同じ分野じゃつまらないじゃない」
と、早稲田大学への入学を後押ししてくれました。