著名人が人生の岐路を振り返る「もう一つの自分史」。今回は皇室ジャーナリストの渡邉みどりさん(85)。日本テレビに在籍していた時代から60余年にわたって皇室報道に携わり、生涯現役を貫く彼女。昭和・平成・令和と時代が変わるなかで経験した、女性として、仕事人としての人生とは?
【写真特集】「美智子さまのお部屋」婚約期間に撮影された秘蔵写真を公開
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日本テレビに入社して3年目の昭和34年4月10日、私は皇太子殿下(当時)と美智子さまのご成婚祝賀パレードの中継スタッフとして青山通り沿いに待機していました。そのとき、カメラでとらえた美智子さまの聡明な笑顔と、その内から輝くような健康美を今でも鮮明に覚えています。それ以来、皇室特番の制作に進み、強い思い入れを持って、美智子さまを追いかけ続けることになりました。
美智子さまとは、昭和9年生まれの同い年。実は、美智子さまのお名前は、皇太子との結婚が発表される以前から存じ上げていました。
それは昭和30年「成人の日」を記念して、読売新聞が懸賞論文「はたちのねがい」を全国的に募集したときのこと。集まった論文4185通のなかから2位に入選されたのが、聖心女子大学の正田美智子さんだったのです。とはいえ、入選されただけだったら、すぐに忘れてしまっていたと思います。
後日、新聞に「2位入選、聖心女子大学の正田美智子さんは、賞金2千円を恵まれない人への社会事業と、聖心の奨学資金に寄付」と報じられたのです。
その論文には私も応募していたのですが、3次選考で落選。「もし当選したら、スキーに行こう」と考えていました。そんな自分を恥ずかしく思うとともに、
「同学年にこんなにすばらしい方がいらっしゃるんだ」
と、その名前が頭に刻み込まれたのでした。振り返ってみれば、その美智子さまとの出会いは私のその後の人生を予感させるような運命的なものでした。
――民間から初めて皇室へ入り、激動の人生を歩まれてきた美智子さま。その姿を見守ってきた渡邉さんの人生もまた、その時代の「普通」とはかけ離れた異色なものだった。
いわゆる「かくし子」でした。私を妊娠したとき、母は結婚を望みましたが、結局、未婚のまま産みました。父は内務・警察官僚で、のちに国会議員となった古屋亨です。岐阜の旧家だった古屋家は、秋田の田舎から上京し、看護師をしていた母とは家柄が釣り合わない、と結婚を許さなかったのです。