大学時代は、新設された女子ボート部の一員として、真っ黒に日焼けし、汗を流したことがいい思い出です。早慶戦に向け、早朝、隅田川で女子ナックル・フォア(4人漕ぎボート)の練習をしていたとき、テレビ局が取材にきました。その日のお昼のニュースに、その映像が流れたのです。
入社試験は英語、常識問題、論文は「テレビ放送の公共性について」800字でした。新橋駅前で力道山のプロレス中継に一喜一憂する数百人の人々を見て私は「スポーツ観戦という新しいジャンル、発展間違いなし」と書いたものです。
入社後、みどりの言う通りになったとか、作文が良かったとか言われたものです。
当時、初任給は1万1800円。まだ海のものとも、山のものともわからないテレビ業界へ就職することに、反対する人も多くいました。
ところが、このときも母は、ジャーナリスト志望だった私が日本テレビに合格したことを、とても喜んでくれました。共学大学への進学しかり、古い常識に縛られない考えを持っていたのは、自分よりも母のほうだったのだと思います。
入社後は、弁当の発注など「雑用の女王」として仕事に追われる毎日でしたが、仕事よりもたいへんだったのは人間関係です。
公募第1期生として入社したなかで女性はただひとりだったことで、つらい思いもしました。いたずらのつもりか、仕事着のジャンパーにコンドームを入れられていたこともありました。このことは、上司に報告できずじまい。
当時、日本テレビには親会社の読売新聞から社員が天下ってきました。日本テレビの若手は、彼らを陰で「読売進駐軍」と呼んでいました。
そんな取締役が突然、私に大声で、「お前の親父は誰なんだ!」
と報道フロアで人の目も気にせず、ずけずけと聞いてきたことがあります。
「いま仕事中ですし、個人的なことはご勘弁願います」
そんな輩に対し、我ながらまずい対応だとは思いながらも、そのときはあまりに不快でこのような対応しかできなかったのです。
その後も廊下で顔を見る度に、「君の親父は……」を大声で連呼するのです。
あるとき、その人が突然宝くじに当たったかのような上機嫌で、
「おーい、お前の親父さん、わかったぞ。古屋さんなんだってな。小林与三次(よそじ)さん(当時の日本テレビ会長)と内務省で先輩・後輩で一緒に出張した仲だそうじゃないか」
と、大声で言うのです。