伊賀の服部半蔵、甲賀忍者から風魔、透破、軒猿まで。戦国大名の「影の家臣」として活躍した忍者。果たしてその役割や、主君との関係は、いかなるものだったのか。発売中の「歴史道Vol.1」では、謎に満ちた忍者の実像を解き明かしている。強靭な身体であたった職務とは? 最強の忍者は一体、誰なのか?
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■「忍び」は宣教師を通じ海外でも知られていた
戦国時代に「忍(しのび)」は存在した。
『日葡(にっぽ)辞書』の「忍び」の項目には「戦争の際に、状況をさぐるために、夜、または、こっそりと隠れて城内へよじ上ったり陣営内に入ったりする間諜ちょう」と記載される。
『日葡辞書』は、慶長8年(1603)から翌年にかけて完成したポルトガル人宣教師による日本語辞書であり、戦国時代の日本語を知るためには欠かすことができない。江戸時代初期においても、来日外国人たちは、忍びの存在を認識していたことがわかる。
その一方、忍者という用語は『日葡辞書』には掲載されず、忍びという表現が使用されていたことが読み解ける。
戦国時代には、伊賀や甲賀の住民たちは、戦国大名の傭兵となり、情報収集やゲリラ戦法の担い手として活躍した。戦国大名の多くが忍者を組織的に活用していたことは隠しきれない真実だった。
特殊な技術により、戦国大名に奉仕する職能として、忍者は確実に存在した。彼らは、人間として考えられる極限まで、強靭かつ敏捷な肉体を鍛え上げ、諜報、防諜、謀略、暗殺などの任務にあたった。
■毛利家、北条家、徳川家、伊達家……忍者を活用した大名
忍者は、伊賀や甲賀のように、小土豪が乱立しているような地域で生まれ育った。山岳地帯の住民たちは、野山を駆けているうちに、平野で暮らしている者よりも足腰が強靭になり、また、山間の小世界の独立を維持するため平野部からの侵入を防ぎ、ときには山賊行為を働きながら、地形を活用したゲリラ戦法を自然に習得した。