西洋医学だけでなく、さまざまな療法でがんに立ち向かい、人間をまるごととらえるホリスティック医学を提唱する帯津良一(おびつ・りょういち)氏。帯津氏が、貝原益軒の『養生訓』を元に自身の“養生訓”を明かす。
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【貝原益軒 養生訓】(巻第一の12)
身をたもち生を養ふに、一字の至れる要訣(ようけつ)あり。
是(これ)を行へば生命を長くたもちて病なし。(中略)
其一字なんぞや。畏(おそるる)の字是なり。
畏るるとは身を守る心法なり。
益軒は「畏」という一字を取り上げて、これこそが「身をたもち生を養ふ」ことの「要訣」、つまり秘訣であり奥の手であると説いています。「身をたもち生を養ふ」という表現が風格があっていいですね。
畏るるとは身を守る心法(心構え)であって、これを行えば、長生きできて病気にならないというのです。さらに、親には孝行でき、主君には忠義をつくし、家をたもって、身をたもつ。いいことだらけだとも語っています。私もこの畏は大好きな言葉です。畏について益軒はこう説明します。
「事ごとに心を小にして気にまかせず、過(あやまち)なからん事を求め、つねに天道をおそれて、つつしみしたがひ、人欲を畏れてつつしみ忍ぶにあり。是畏るるは、慎しみにおもむく初(はじめ)なり。畏るれば、つつしみ生ず。畏れざれば、つつしみなし」(巻第一の12)
益軒は畏れるとは天道をおそれることだと説いたうえで、畏れから慎しみが生まれると言います。天の摂理のなかに、自分の生命(いのち)があることを知り、その摂理を畏れることで、謙虚に生きるということでしょうか。
私が畏という言葉の意味をかみ締めたのは、がん診療に中国医学を取り入れるようになってからです。
外科医だった頃は、いかに手術をうまくやるかを考え、患者さんの心に寄り添うことができませんでした。中国医学では顔をよく観察します。そうすると患者さんの心の中が見えてくるようになり、心の様子が気になり始めました。
そして、この生きるかなしみこそが、天の摂理を畏れることにつながっているのです。明るく前向きに自分の思い通りに生きている人は、天の摂理とは無関係です。自分で何でもできるのですから。でも本来、人間はそうは生きられない。だとしたら、生命の根源である天の摂理を畏れ、謙虚に生きていくことになるのではないでしょうか。
益軒は「朱子(しゅし)、晩年に、敬の字をときて曰(いわく)、敬は畏の字これに近し」(同)とも語っています。南宋の朱熹(しゅき)が体系化した朱子学には「居敬(きょけい)」という慎んで徳を積む修養法があり「敬」を重んじています。この敬について朱熹は晩年、畏という文字の意味に近いと解釈していたというのです。
私は生命の根源である天を畏れ、人のかなしみを敬(うやま)うことによって、温(ぬく)もりある本当の医療ができると考えています。私事で恐縮ですが、私の病院の「帯津三敬病院」の敬の字にはその思いを込めているのです。
※週刊朝日 2017年7月14日号