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2月29日(旧暦)は遠山景元、わかりやすく言えば遠山の金さんの命日にあたる。かなりの人が勘違いしているが、金さんは実在の人物で、徳川12代将軍・家慶の治世で活躍した奉行である。家慶と同じ年に生まれ、世継時代の家慶の世話役を務め、遠山家の当主となったのちには作事、勘定、北町奉行の職を歴任した。
●奢侈禁止の「天保の改革」の時代とは
簡単にこの時代を説明すると、11代将軍・家斉の時代は老中・松平定信の寛政の改革から始まった財政立て直しの緊縮財政による不況風が吹き荒れ、この後はその反動から贈収賄が横行する腐敗政治が続いていた。一方で、江戸の町人文化が中心となった化政(文化・文政)文化が花開き、歌舞伎、浄瑠璃、浮世絵、川柳、狂歌などが流行った。写楽や北斎、十返舎一九、鶴屋南北、円山応挙などもこの時代が輩出した大家である。
家慶が将軍に就任後も家斉が大御所として政治を行っていたが、家斉が没すると老中・水野忠邦はこれまでの改革に反対をしていた人物たちを排除し人事を刷新、それまで進めてきた「天保の改革」をより強力なものとした。奢侈禁止や問屋仲間の解散、人返し令(農村出身者を強制的に帰郷させる命令)、貨幣改鋳、武士などに対する債務免除などが実施され、すでに混乱していた経済はますます混迷を深めていった。
●芝居小屋を守った金さん
遠山景元はこのような時代に北町奉行に就任した。
景元は、「天保の改革」に対し南町奉行の矢部定謙とともに反対の立場をとっている。ある程度の贅沢と奢侈については禁止命令を出してはいるが、問屋仲間の解散や価格の統制などについては見直しを進言したりもしている。中でも、景元がここまで後世に名を残すこととなった大きな理由は、大火で焼失した芝居小屋をこの機会に乗じて全廃止しようとした老中に対し、景元はそれまで日本橋や木挽町にあった芝居小屋を浅草猿若町へ移転させることで収めたことだ。これに感謝した芸能関係者がこぞって、「遠山の金さん」にちなんだ演目を上演し持ち上げることになった。