●禁止されても道をみつけるしたたかさ

 景元とともに改革に反対を続けてきた南町奉行・矢部定謙は、わずか半年あまりで罷免され伊勢桑名藩に幽閉、のちに憤死した(自死したとも言われる)。この矢部罷免に活躍したのが、「遠山の金さん」の敵役でも有名な鳥居耀蔵(忠耀)である。鳥居耀蔵は水野忠邦の腹心として暗躍し、あちらこちらで騒ぎを起こし続けた人物だ。高野長英や渡辺崋山が捕らえられた言論弾圧事件・蛮社の獄は特に有名だが、数々の人物を濡れ衣と讒言で失脚させた。矢部定謙失脚のあと耀蔵は南町奉行の後釜に座り、北町奉行の景元とも対立、耀蔵の度重なる策略に勝てずに、景元も3年弱で北町奉行を辞めることになってしまった。

 南町奉行時代の耀蔵の風俗取り締まりは殊に厳しく、特に歌舞伎に激しい弾圧を加えた。7代目・市川團十郎を手鎖のまま江戸追放という見せしめを行い、興行地の限定をするのだが、一方で歌舞伎の全国公演という足場作りにもなった。また、出版統制令により美人画や役者絵に制限がつけられるようになり、苦しんだ版元は風景画という分野に糧を見出す。これが北斎や広重らをして後の世に世界的ブームとなる風景画シリーズを生み出したともいえるだろう。

●再び復活した金さん

 鳥居耀蔵は、「天保の改革」の失敗から立場が危うくなってきた親分の水野忠邦さえも陥れ、忠邦が失脚した後も町奉行にとどまる。もちろんこのような耀蔵は市中の江戸の人たちからも嫌われていて、揶揄する落首が江戸中で見られたようだ。しかし耀蔵の悪運もここまでで、忠邦が失脚後わずか半年で幕閣に戻ってくるのである。耀蔵は忠邦の報復で失脚、全財産没収の上讃岐丸亀藩での幽閉生活となった。結局明治元年に恩赦となるまでの23年ほどを幽囚として過ごした。

 一方、遠山景元は再び忠邦が失脚した後、今度は南町奉行に復帰した。解散させられた問屋仲間の再興を行い、文芸の復興にも尽力、新しい老中・阿部正弘に重用され、7年後に職を辞している。これらを考えてみれば、「遠山の金さん」は北町時代よりも南町時代の方が長かったことになる。

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後世が作り出した金さんのイメージ