「その地域にある公共の電気と契約していたようで、長い時は10時間くらい電気がきて、テレビを見ることができました。7月半ばに一度窓も閉められましたが、観音開きの窓が2つあり、その窓を開けることで過ごしやすいような状況にはなりました。部屋の中にトイレはないので、一日2回彼らが食事を運んでくる時にトイレに行くと。彼らが見張っている間に済ませておくと。食事は彼らと同じものを持ってきていて、量的にも特に少ないということもなく、頻繁に鶏肉であるとか、日によってはシリアのスイーツを持ってきたり、鶏肉を料理したりと。トルコの料理であるラフマジュンというピザのような薄いものがありますが、これをトルコの新聞に包んで持ってきたこともあります。通訳の持っている携帯電話がメッセージを受信したこともあり、トルコの国境からかなり近いと思っていました。
周囲には民家があり、年配の女性や子どもの声もありました。外からは大勢の子どもたちが遊ぶ声も聞こえていました。イスラム教の礼拝もかなり大きい音で聞こえていたので、住宅地なのだろうと考えていました。そういった状態がずっと続き、12月7日に個人情報を日本に送るからと書かされました。今の日本側に対して、「放置するように」というメッセージを言ったのですが、そういった個人情報を書いて、彼らは日本側から来たということは生存証明であろうと。人質と引き換えに身代金などの対価を渡すためには生きているという証明が必要ですので、彼らもそれを求めてきたということは払うという流れだと思ったようで機嫌が良くなりました。ただ、12月20日を過ぎても日本側から返事がなく、その後は、(国際ジャーナリスト組織の)『国境なき記者団』から(自分が)人質であるという情報が流れたことから、彼らの機嫌は悪くなり、トイレの行き帰りに尻を蹴られることもありました」
同年12月31日に安田さんは彼らから妻の連絡先を教えろと、日本政府に圧力をかけさせると言われたという。
「電話番号とメールアドレスを書かされ、(翌年)1月6日に妻から私しか答えられない質問が書いたものを印刷して持ってきまして答えました。そのあたりも報道されていると思いますが、英語とアルファベットで答えました。16日深夜には別の一戸建ての民家に目隠しをされて移動し、19日にはまた同じ質問を聞かれました。日本側から返事がなかったのだろうと推測しました。1月16日、別の一戸建ての民家に目隠しをして深夜に移動しました。報道で出たのは、この2回目の(メッセージの)方ですね。『オクホウチ』と書いたのですが、これは、妻のことを『おく』と呼んでまして、それに『ほうち(放置)』と。妻には、何かあれば放置しろと常々言っていましたので。しかし、私が質問に答えた後に、日本側から返事が途絶えたので、(武装勢力は)私が紳士的に扱われているので大丈夫だというようなメッセージを送ったと疑ったのではないかと疑ったようで、背中を蹴ったりと暫くの間非常に機嫌が悪かったです。3月15日になり、この状態に終止符を打ちたいので動画を撮ると言われました。何を話すか考えろと。