翌日、『ビデオを撮影するのでこれを読め』と台本を渡されました。15日にはビデオを撮影。『感情的なものを出せ』とも言われて、家族に対するメッセージや彼らが用意した詩のようなものをつけました。公開される動画になった場合、その中にメッセージを入れてしまうと、解読される可能性もあるので、そういったメッセージは入れませんでした」
動画の撮影後、武装勢力の対応が良くなったという。
「1日2回の食事の間にカップラーメンやスイーツなどおやつをもってくれるようになってきて、それが1カ月続きました。これまでには『殺すことは絶対にない』と言われていたので、1カ月様子を見て、その後、私をほうり出すのではないかと思っていました。また、5月9日には別の一軒家に移動しました。5月14日の日没前の明るい時間に誰かが家の門を開けて入ってきたような音がしました。見張りの人々が話をするのをやめて様子をうかがっていました。なんだろうと思っていたら、門から入って建物の周囲をうろうろとしている気配でしたが、捕まえて中に引きずり込むと、ジャンダルマ(トルコの憲兵隊)と英語で話していたと。パニッシュメントと聞こえ、うめき声のような声がしばらく続きました。アラビア語のできない人物が様子を探りにきたので捕まえたと。別の部屋に監禁されていました。彼は日々拷問を受けているような音が聞こえてきました。なぜ殴るのかと聞くとこいつは兵士だと。私は、彼は私がいると分かって入ってきたのかが非常に気になりました。
そうなると、抱き合わせで要求が始まると話が変わってしまうと心配でしたが、そういう請求もなかったので、空き家だったところに突然男たちが住み始め、怪しいので様子を見に来たのかなと思っていますが、アラビア語ができない外国人がうろうろしているということはジャーナリストや活動家ということは考えられないので、情報機関が探っているのかななどと考えました」
その後、世界中で報道された2016年5月23日にオレンジの服を着て手書きのメッセージを持って写真撮影をしたという。
「これは相手から指定され、日本語で書けと言われました。日本語で書いた時、カメラを持っていた人物が「これが漢字か、これがひらがなか、これがカタカナか」とある程度勉強していて、チェックができるような体制で書かせたということですね。29日に公開されて、部屋にテレビがありましたので、30日に見て、(写真が)流れたのだなと思いました。その後、彼らが話している声が聞こえたのですが、彼らからニダールと呼ばれていました。「ニダールはどうするんだ」と言ってくるので、一緒にいる外国人をどうするかということが問題としてあって、7月に入った頃に彼らが喜んでいるような大騒ぎの声が聞こえました。お祝いをしているような声がしたので、おそらく身代金などが出る交渉がまとまったのだと思っていました。夜に移動すると言われました。私はこれで解放なのかもしれないと期待しましたが、車でかなり移動し、別の車に乗り換えてまた別の方向に向かいました。中継地点に行くまでの車の中でどこまで行くのか聞くと、トルコだという。私はトルコまで行くのかと思いましたが別の車に乗せられて彼はその場所を知っていますから、場合によって私の存在を知っているかもしれないので、彼の解放とあわせて私を解放したのだと思いました。